太陽のしずく

 波打ち際で、壊れた奈津のサンダルは砂を噛む。
 暗くなる前に、という約束で、二人は浜辺に立つ。
「そろそろ、戻らないか?」
 時計に目をやり、孝治は海岸線をなぞり続ける奈津の背に問いかける。
 三十分前に日は落ちた。
 その時孝治は地平線を見ていたが、特別な感慨など浮かばぬ夕日がそこにあるだけで、それでも沈黙に耐えきれずに「奇麗だな」とだけ呟いた。が、奈津は何も答えなかった。
 そして今も、彼女からの返答は得られない。
 昔はよく喋る女だった。常に、幸福を幸福として甘受することを求める女だった。孝治は過ぎ去った過去を振り返り、今の奈津の姿にそれを重ね合わせようとした。
 奈津はそこに海があることなど気付いていないかのように、砂の感触だけを味わう歩みを続けている。
 孝治もまた、そんな彼女から離れぬように、それをなぞった。


 五年程前になるだろうか。
 友人に誘われて行った展覧会で、恥ずかしげに案内をしていたのが奈津だった。
 馴れぬ様子はいっそ気の毒なくらいで、そんな彼女を指し、友人は一言だけ告げた。
「婚約するんだ」
 その友人は、当時十九。奈津は十八だった。
 まだ二人とも学生で、何のつもりかと思ったが、いつまで経ってもその話は本決まりにはならなかった。
 それから四年、二人が正式に婚約したのは、友人が二十三になってからだ。
 孝治はパーティの席にも呼ばれた。
 奈津の微笑みだけが印象的で、それ以外のことは覚えていない。当の友人の様子すらも。
 だからだろうか。
 友人が奈津の通帳を持ち出したわけも、突然失踪した理由も思い当たらないのは。


 時折、孝治は奈津を外へ連れ出すことにしている。
 いつまでも暗い部屋の中で泣いている彼女を、放っておくわけにもいかなかったからだ。
 失踪した友人が孝治に残して行ったものは、抜け殻になった元婚約者と、保証人になっていたがために抱え込む羽目になった借金の、たった二つだけだった。
 一つは、孝治が親の遺産を処分することで片が付いたが、変わり果てた奈津だけは、どうすることもできなかった。
 訪ねて行った孝治に、奈津は一言だけ呟いた。
「海。明るい間だけ、海」
 電車に乗せ、一時間。孝治は人気のない浜辺へ奈津を連れ出した。
 それでも彼女は、ただ砂だけを眺め続け、青い景色へは何の興味も示そうとはしなかった。
 孝治はそれでも耐えた。反応の返らぬ相手に話しかけ、出来うる限り、腕の時計から目をそらして。
 費やした時間は膨大だ。この一年、孝治は無駄でしかなかった日々が幾日あったかを思い出す。
 奈津は変わらない。一年前から、何一つ変わらない。


 浜辺に着いてすぐ、奈津は不安定な足元にバランスを崩し、膝をついた。
 そのために、彼女のサンダルは片方だけ壊れた。
「ケガは?」
 答えのないことを承知で尋ねた。彼女の様子を見、どこにも異常がないことだけ確認し、孝治はまた彼女の好きにさせることにした。
 あれから何時間だ?
 孝治は次第に暗くなっていく景色の中で、つい時間の経過を考える。彼女といる間は、どれだけ時が過ぎようと、それに無関心でいなくてはならないはずなのに。
 失踪した友人を、孝治や周囲の人間は一年の間探し続けた。
 それは奈津の為でもあったが、各々が被った被害のためでもあった。
 しかし、彼の行方はいつまで経っても掴めない。
 人はこれほど簡単に、消えてしまえるものなのか、と孝治も感嘆するしかない。
「奈津……?」
 壊れたサンダルを履いた足で、彼女は漸く立ち止まる。
 何事かの変化の兆しなのか。孝治は裏切られるだけの期待を抱く。
「孝ちゃん、あのね……」
 奈津のか細い声が、砂浜に消え残る。


「孝ちゃん、あの人ね……」
 けしてこちらを振り返らぬ奈津の背を眺めたまま、孝治はその続きを待った。
「ここから流れて行ったのよ」
 その言葉の意味がわからず、孝治は思わず聞き返した。
「流れる? 何が流れるって?」
「あの人。私、ここから流してあげたの」
 嫌な予感がした。
 それ以上は、聞くべきではないような気がした。
 が、孝治は、珍しく奈津が口を開いたことに対する喜びから、もっと何か話してくれ、という気持ちだけが先行していた。
「ほら、泳ぐの大好きだって言ってたから。海の中の方がいいと思って」
 孝治の視線は、壊れたサンダルへと注がれる。
 電車に乗る前に、駅で新しい靴を買ってあげなければならないだろう。彼女の足のサイズは幾つだったろう。いや、それより、彼女の好みの方が重要だ。どんな靴だったら、納得して履くだろうか。駅前には確か靴屋もあったが、何時まで開いているのかまではわからない。あまり遅くならないうちに行かなければ。
「ね、孝ちゃん。砂って、こぼれちゃうでしょ。でも、あの人のおでこについた砂、取ってあげようとしても、余計に広がって汚くなっちゃうの。海に入った後、ちゃんと落ちたのかな?」
 夕食もまだだ。彼女は夜はあまり食べない方だから、軽いものがいい。この付近の店に入ってもいい。それよりも、一時間我慢して電車に乗ってもらって、彼女の好きなあの店に行った方がいいだろうか。
「あの人、どこまで流れて行ったのかな」
 また、孝治は地平線を眺めやった。暗い海は、もうどこからどこまでが空なのかすらわからない。何も見えなかった。ただ寄せては返す波の音だけが、海の所在を教える。
 耐え続けることが、孝治に課せられた厄介な仕事だった。
 だが、もうそれも、終わらせてもいいような気がしていた。
「奈津……殺したのか?」
 もう一年だ。
 一年も耐えて来た。
 彼女の壊れたサンダルだけが、孝治の目を惹きつける。
 微かな沈黙の後、さざ波が孝治の耳に反響する。
 そうして奈津は答える。
「流してあげたの」


 一年前。友人は孝治を海へ誘った。
 たまたまその日は不運続きで、孝治が約束の場所へ着いたのは一時間も後だった。
 友人の姿は当然なく、さてどうしたものかと海岸を歩いていた時、血に染まった革靴と、友人所有のガスライターが砂の中に見えた。
 なぜだろう。孝治はそれをそのまま、海の中へ投げ込んでしまった。
 いや、もしかしたら、友人が既に死んでいることに気付いていたからかもしれない。
 見上げた先には崖。
 もし友人が、孝治の想像通り、上から落ちて来たのなら、もう死んでいるだろう。
 全て悟った上で、孝治はそれらの品を捨てた。
 理由は一つ。
 今ここにいる自分が疑われる。それを避けたいがために、彼がこの浜辺に立った痕跡を、一つ残らず拭い去りたかった。
 だが、孝治は友人の死体を見てはいない。
 ただ、死んだのだろうと勝手に判断しただけだ。
 元より、彼の死を悲しむ必要などなかった。
 週に一度は金の無心に現れるような男だった。「友達だろう、助けてくれ」が口癖になっていた。
 いつからそうなってしまったのかわからない。五年前に奈津を紹介してくれた時の彼は、もうどこにもいなかった。
 失って、後悔するような人間ではなかった。
 ただ一つの心残りは、奈津が被った痛手が想像以上のものだったこと。
 死んでいる。そう教えてやれたなら、彼女を少しでも救うことができるだろうに。孝治は常に奈津を見、そう思い続けた。
 きっと奈津は、友人が戻って来るのを待っているのだろうから。
 彼はもう戻らないのだと、教えてやるべきなのだろうから。
 しかしそれだけはできなかった。
 友人の遺品を、そうと知って海に投げ捨てた。それを口にすることを、孝治の自尊心が許してくれなかったのだ。


 そもそも友人はなぜ死んだのだろう。
 自ら飛び降りたのか、何かの弾みで転落してしまったのか。それとも、誰かが故意に突き落としたのか。
 孝治は一年振りに崖を見上げる。
 友人の背を押す奈津の顔が思い浮かぶ。
 奈津が変わってしまったのは、彼を殺したからなのか?
「孝ちゃんと話があるから、終わったら二人で船に乗ろうって言ったの」
 初めて奈津は孝治を振り返った。
 サンダルだけを眺めていた孝治は、不意に顔をあげる。見たこともない強い眼差しが、孝治を正面から捉えていた。
「でもあの人、ここに落ちてた。……落としたの、孝ちゃん?」
「違う! 俺が来た時には、靴とライターしかなかった!」
 長い間孝治を捕らえ続けていた不安が、今初めて形を得た。疑われるのではないかという怯えが、ついに現実のものとなって孝治の前に立ちはだかった時、自然と声が高くなった。
「その、靴とライターは?」
「……海に、捨てた」
 奈津ではない。その安堵を、確かに孝治は感じていた。が、逆に自分にその疑惑が回って来たことに対する焦りも、またそこにあった。
 既に二人を灯す明かりはなく、孝治の目から、奈津の表情は少しずつ遠くなる。彼女がそこにいることさえも、不確かになっていく。


 波の音が、ひどく耳障りに思えた。
 孝治は突然、数年前に三人で小さなプールへ行った時のことを思い出す。
 一人はしゃぐ奈津と、それに付き合って陽気になる友人。
 いずれ二人が夫婦になって、やがては自分も家庭を持つ日が来る。そうして今度は四人で、そのうち子供が生まれてもっと大人数で、こうやって過ごすことにもなるだろう。友人と奈津と、いつまでもこの関係は続いてくれる。
 そう信じた夏の日。


 気付いた時、孝治の眼前には壊れたサンダルがあった。
 頬に当たる砂の感触に気分が悪くなる。
 自分を見下ろしている奈津は、一言も喋らずに、孝治の頬の砂を払う。
 勘違いなのだ、と弁明する間もなかった。
 自分がもっと早く、自身の潔白を口にしていれば、少しは違う結果が訪れてくれたのだろうか。一年も口を噤んでいたのは、奈津も同じだというのに。
 腹部に感じる熱。そして砂を染める赤黒い液体。
 こんな状況になってもまだ、なぜ友人が落ちたのかを模索する。
 わかるはずがない。それでも、自分が突き飛ばしたのではないことだけは、変えようのない事実だ。
 奈津の笑顔を最後に見たのはいつだったろう。
 もう一度笑ってくれたなら、三人でいた頃のように微笑んでくれたなら。そうすれば、もしかしたら友人も戻って来るかもしれない。昔のように、いい関係に戻れるかもしれない。何もかも、元通りになってくれるかもしれない。
 それは淡い夢想でしかなかったが、孝治は諦められなかった。
 今、こんな目に合っているのは、友人は死んでいるのだと、認めなかったことが原因なのか。
 孝治はまた、過ぎ去った日々を思い返す。
 強い日差しの中、駆け回った自分達三人を。
 けして変わることなく続くと思えた時間の中に存在していた頃を。
 それは徐々に遠ざかり、そして、寄せる波音にかき消される。