ALL Of BARREN SOUL

「月見をしないか?」
 数カ月振りに聞く友人の声に誘われるまま、外に出た。
 日が落ちて四時間。
 残念ながら、僕は月見というものがどういう行事なのか、さして詳しくなかったので、当然手荷物として用意すべき物もわからず、それでも何かあってもいいように財布だけは持って出た。
 今夜は月が出ているのだろうか。
 不意に見上げた先には、街路樹の葉があるだけで、そこに月の姿は確認できなかった。仮に月が出ていたとしても、ここ数年でマンションが林立するようになったこの一角からは、星空も朝焼けも伺い知ることは不可能に近く、僕の行為は無意味でしかなかったのだが。
 待ち合わせの場所は、彼の家からは少々離れており、また僕の家からも近いとは言えなかった。月見の名所でもあるのだろうと、気にも留めずに出向いたのだが、駅で合流した彼が僕を伴って入って行ったのは、小さな公園だった。
 中央に位置するジャングルジムによじ登り、彼は手招きで僕を傍らに座らせる。
「飲むか?」
 差し出されたのは、最近発売したばかりの清涼飲料水だった。
 こんな時間に呼びつけておきながら、味気ない接待だ。少々苛立ちを感じたが、僕は無言で缶を受け取った。
「今夜は月がないな」
 その言葉通り、曇り空から垣間見えるものは何一つとしてなかった。
「月がないのに、月見なのか?」
 僕の問いに、彼はしばし考えた後答える。
「まあ、そのうち出るだろう」


 缶の中身が乏しくなった頃、どこかでクラクションが鳴り響く。そして鈍い衝突音。
「事故でもあったかな?」
「らしいな」
 園を囲む木々のお陰か、僕等は付近で起こる何事にも関与できない。
 物事にこうも無関心ではないはずだというのに、僕は動かなかった。何故か動く気になれなかったのだ。
 が、突然彼はジャングルジムから飛び降り、音の方角へと向かって歩き始める。
「おい…」
 彼は無言のまま、隅にある公衆便所を指差す。
「ああ、そうか」
 物足りない気持ちを抑え、僕は一気に飲料水を飲み干した。
 そもそもなぜ、僕はここで彼と無言のままに月を待っているのだろう。
 彼とは長い付き合いだったが、あまりお互いのことをよく知らない仲でもある。普段どこで何をしているのかも、本名すらも。
 教えてもらった住所に、本当に住んでいるのかどうか、確認したこともない以上、僕は彼のことを何も知らないも同然だった。
 たまたま場末の遊技場で意気投合し、「U」という通り名と携帯の番号だけを教えられた。
 忘れた頃に連絡が入り、それは決まって深夜で、その度に違う場所に呼び出された。
 暇潰しには打ってつけの人物で、退屈はしなかった。
 昼間は風通しの悪い部屋で眠り、夕方に漸く活動を始める。僕の生活費は、一緒に暮らしている女が全て負担していて、彼女が無償で僕を養ってくれる理由もよくわからなかったが、居心地は悪くなかったので敢えて何も聞かずに居着いている。
 この数年で、僕の友人の殆どは離れて行った。原因がどこにあるのかくらいわかってはいたが、それを改めるつもりもなく、とうとう僕の周囲は、同棲している女と、このUという男だけになっていた。


 余計なものを見てしまった、と後悔したのは、もっとずっと後のことだ。
 その時は、彼に連れられるままに、公園の外に出、何も考えずにそれの前に立ってしまっていたからだ。
 公衆便所から戻ったUは、僕の手を掴んで無言で突き進み、道路に転がる物を指し示した。
 街灯が照らす限りでは、倒れた人間に見えた。
 ゆっくりと近づくと、それが既に死んでいる人間であることもわかった。
「やっぱり事故だったのか」
「轢き逃げみたいだな」
 彼は落ち着いて周囲を見回し、僕達以外に誰もいないことを確認した上で、死体の上に屈み込み、その上着を開いた。
 人道的には許されざることだったが、彼は死体から財布を抜き取り、中を開くこともせずに自分の懐に押し込む。
「おい……」
「先に礼を貰っただけさ。これから警察呼んでやるんだ。一晩中、こんなとこに転がされてることを思ったら、礼くらい当然だろ。なあ?」
 動かぬ相手に呼びかけた後、彼は再び園内に戻る。
 仕方なく、僕もそれに続いた。
 が、見開かれた目の奥が、死んだ魚のように不気味に光っていたことだけは何故か頭から離れず、僕は知らず身震いした。
 それはけして、Uの行為に対する嫌悪からではなく、つい数分前まで生きていたはずの人間に対する恐ろしさだったと信じたい。


 彼はまたジャングルジムに上ると、持っていたコンビニの袋から弁当を出した。
「食うか?」
 最初から温めずに持って来ていたらしいそれは、鮭の切り身の入った弁当で、またしても僕は死体の目を思い出してしまい、首を横に振る。
 それ以上は勧めず、一つしかない弁当を開け、彼は箸を動かし始める。
「警察はいいのか?」
「面倒だろう、いろいろ。先に食って、月を見て、それからでいい」
 確かに面倒な手続きが僕等を待っていた。それを想像すると、僕も無理に通報する気にはなれなかった。
 仕方なく、僕も彼の横に座り、また空を見上げた。
 雲に覆われたそこには、月の陰などなかったが。
 弁当を半分食べ終え、彼は咳き込みながら僕にこう言った。
「飲み物がいるな、ちょっと行って来てくれないか」
 そして先程の財布から千円札を一枚抜き出した。
 何の抵抗もなく、それを使えることには少々驚いたが、諫める権利が僕にあるはずもない。
 皺だらけの札は、何か特別な感触を伝え、僕はそれを掌に握り締めたまま走り出す。
 こんな不快な夜は初めてだ。


   新しい缶ジュースを飲み干しても、月は出なかった。
 見知らぬ男の金で買ったそれは、必要以上に甘く、僕は気分が悪くなった。自動販売機が故障でもしているのか、生ぬるい液体は僕の喉に絡みつき、身体中にその侵入を自覚させる。口中に残る香りがそれを増長させ、右の耳から入る彼の咀嚼音と相俟って僕の視界を歪ませる。
 死体を見た後だというのに、彼は平然と弁当を流し込む。
「よく平気だな」
「事故にあったわりには、ぐちゃぐちゃになってなかっただろ。あれじゃ、死んでようが生きてようが、見た目に変わらないだろ」
 いや。
 外傷が少ないから、余計に薄気味悪いのだ。
 どこにも大きな傷がなく、ただ死んでいる。目を見開き、そこに転がっている。
 生きている人間と大差ないからこそ、不安になっているというのに。
 もしかしたらまだ生きているのかもしれない。今ならまだ助かるかもしれない。そんな思いさえ抱かせる。
 だがあの男は死んでいる。間違いなく、もう死んでいる。
 あの木々の向こうで、あの男はそこに転がったまま、僕等だけがその存在を知っている。ここからその姿が見えないことだけが、唯一僕を慰める材料になっていた。
 僕はただ、彼が弁当を食べ終えるのを待っていた。
 そして早く誰かを呼んでくれるのを、ただ待っていた。
 しかし、そんな僕の願いが、彼に理解できるはずもなく、弁当を食べ終えた後も、しばらく空を見上げてそこにいた。
「そろそろ通報した方がいいんじゃないか?」
「まだいいだろう。月を見てからだ」
 彼が本気で月を見ようとしていたのかどうか、今となっては定かではないが、彼は頑なにこの月見を強行しようとしていた。
 月のない晩に、公園に座って、彼は月見をしていた。
 彼のことをよく知らない僕の目にも、彼が風流な行事を好むタイプでないことは理解できた。それがどうしてこの日に限って、こうまで月見にこだわるのだろう。
 もしかしたら彼も、偶然出くわしたこの事態に動揺していて、その感情を無理に押し殺すために、月見を優先したのかもしれない。


   数十分後、彼はまた下に降りた。
「あいつ、いい時計してたな」
「…盗りに行くのか?」
 彼は僕を見上げ、苦笑してまた公衆便所を指差した。
「違う。あっちだ」
 だがその裏手には、あの死体がある。帰りに何気なく回れば、また死体のそばに出る。行ったついでに、彼が時計を持って帰って来るだろうことは、容易に想像がついた。
 しかし僕は止めなかった。
 その気があったのなら、財布を盗った時に止められたはずだからだ。財布は見逃しておいて、時計だけ禁ずる、その理由がない。
 僕は彼がどんな顔で戻って来るのか、ここで待つことにした。
 彼が茂みに消えてすぐ、またしても鈍い音が響き渡った。
 どこかでまた事故でもあったのかと思ったが、これ以上巻き込まれるのは御免だったので、僕は動かずにいた。
 当然、どんな事故が起こったのかも知らなかった。
 公園のすぐ裏手だということも知らず、彼がはねられていたことも、また、知らなかった。


   誰が通報したのか、僕は聞かなかったし、誰も教えてくれなかったので、結局わからないままだ。
 だが意外に早く人が集まり始め、それまでの静寂は破り去られた。
 僕が知っていたのは、Uという通り名と電話番号だけ。
 教えられていた住所には、彼に該当する人物は住んでいなかったらしい。
 彼とこれまでに行った店の名を全て挙げたが、どの店でも彼のことを知る人間はいなかった。
 所持品は、財布二つだけ。一つは彼自身の財布で、中には三,四二一円が小銭で入っていただけで、カードや身元を証明するような品は一つとして入っていなかった。
 もう一つの盗んだ財布にも、持ち主を示唆する物はなく、五万円程度の現金だけだった。
 Uもまた轢き逃げで、即死だった。
 二つの死体を前に、人々は困惑していたが、僕にもその事情を説明することはできない。
 誰が、一晩のうちに同じ場所で二度も同じようなことが起こるなどと思うだろう。
 二つの死体と二つの財布。
 死んでいた男には命がなく、Uには正義がなく、僕には意志がなかった。ただそれだけのことだ。
 慣れた家路を辿りながら、もし財布を盗んだのが僕だったら、と考える。
 僕も、彼には本名も住所も教えていない。
 Uと立場は同じだ。
 そしてまた、あの死体の目を思い出す。
 生きている人間と変わらないその姿を。
 今こうしている僕と、何ら大差ないあの男の死に顔を。
 急に、背中を何かが流れ落ちるような感覚に襲われ、僕は恐ろしくなる。
 何をしていたのだろう。
 曇り空を眺めて月見をし、何を話すでもなく二人で公園に座って、そして知らない男の金で飲み物を飲んだ。
 帰り着いた先で、僕は鍵を探した。が、どこかで落として来たのか、鍵は見つからなかった。
 女はもう起きているだろうか。
 時計は七時一五分。
 期待を込めてドアノブを回すと、案の定扉は開いていた。
 が、狭い室内には誰もいない。
 もう仕事に行ったのかとも思ったが、彼女が出掛けるのは決まって八時。まだ家にいるはずの時間だ。
 昨夜からまだ帰っていないらしく、僕が出た時のままの雑然とした部屋。
 丸テーブルの上には、僕が忘れて行った鍵が乗っていた。
 嫌な予感がしたが、僕はそれを打ち消すようにまた外に出る。
 もう一晩遊んで、それから戻れば、その頃にはきっと女も帰っているだろう。
 不意に、月見、という言葉が頭に浮かぶ。
 月を見て、それから帰れば、きっと今までと同じ日常が展開される。何の根拠もなくそう感じた。
 僕は再び空を見上げ、見えるはずのない月を探した。
 が、高層マンションの壁ばかりがそこにあり、僕の目には朝靄すらも映らない。