DEAD END STREET
またおまえか……いい加減、帰ったらどうだ?
そんな声が聞こえたような気がして、目を開いた。
まだ明けて間もない街並みは、ただただ静まりかえっているだけで、周囲に人影はない。念のためにもう一度だけ顔を上げ、巡らせた視線に人間が一人も映らないことを確認し、彼は再び俯いた。
自分が今年で幾つになったのか、そろそろ忘れてもいいはずだったが、どれだけ年齢を偽り、行く先々で嘘を重ね続けていても、本当の歳はどうしても頭の片隅にこびりつき、けして彼を自由にしようとはしない。
彼は目を伏せたまま、ここ数ヶ月のことを思った。
家を抜け出した夜、手当たり次第に身の回りの品を詰め込んだバッグを抱えていた。が、それから三時間後には、その重い荷物は盗まれ、彼は突然身軽にされてしまった。残ったのは財布だけで、中身は小遣い銭程度。深夜営業の店に入り、夜明けを待った。
次に行動を起こしたのは数日後。住み込みの仕事に応募し、歳は二十歳と偽った。適当な身の上話をでっちあげ、人情に厚いらしい店主は涙目になって彼を迎え入れた。が、急場しのぎの嘘はいつまでも通用せず、何気ない一言で全てが終わった。給料すら貰えず、僅か十日で追い出された。
これに学んだ彼は、疑いを抱かれない程度の話を作り、それを裏付ける履歴書を手に次の仕事を探した。年齢の欄には十九歳と書いて。これが実にうまく運び、彼は一ヶ月近くそこで働き、五万円を手に入れた。しかしいつまでも物事が順調に進むはずもなく、同僚の使い込みの濡れ衣を着せられ、簡単に放り出された。
その晩初めて、路上で眠った。宿を求めることもできたが、無駄に金を減らすことがどれほど危険かを十分に学び取っていたため、彼は喜んで人気の無い町角に座り込んだ。
以後、彼は寝泊まりする部屋の必要性を感じなくなった。むしろ、住み込むことで、より他人と接触する時間を増やすのは愚かなことだと悟った。隠し事が白日の下にさらされる危険に怯えるなど、あってはならないと。
目を覚ました時、薄汚れた上着の男がそこにいた。が、敵意は感じなかったので彼は身構えたりはしなかった。いつからか、そんな勘が働くようになっていた。
「坊主、家出か?」
口を開くのさえ面倒だったので、軽く頭を動かして肯定した。
「泊まるとこもないのか?」
再び頷いた。
「うちに来るか? 布団はあるぞ」
今度は首を横に振った。
「他人は信用できねぇか?」
関わり合いになるのを避けたいだけだったので、彼はどちらとも答えられずにいた。
「歳は? いくつなんだ?」
両手の指を使って示した。
「十八か。これからどうすんだ?」
しばし考えた後、ついに口を開いた。
「……仕事行く。夜、ここに戻って寝る」
やっと答えた彼に、男は軽く手を振って見せた。
「仕事があるのか? まあいいさ、またな」
その後も、何度も職は変わったが、寝床だけは同じくこの町角だった。
住宅街の片隅の、うらぶれた小さな通り。辺りが暗くなるのと同時に人影も絶える。
例の男は三日に一度は姿を見せた。それというのも、男の家が、この凭れる壁の内側の、古い木造のアパートだったからだ。
二階にある男の部屋からは、膝を抱えて踞る彼の姿がよく見えた。男は週の内二、三回程度、帰らぬ日がある。そんな翌日は必ず夜が明けきらない内に戻って来る。彼と顔を合わせるのはその時だ。それ以外の日は、まだ眠っているのか、彼がその場を離れる時間が来ても、部屋のカーテンは開かれない。
彼は先程の声が空耳だったのかを確かめる為に、珍しく立ち上がり、壁の向こう側を見上げた。男の部屋に変化はない。彼が昨夜ここに来た時と同じように、留守宅に家人の姿はない。灯されたままの裸電球が窓の奥に見える。
彼は今、一つだけ腑に落ちないことがある。
どうして家の人間は、自分を捜しに来ないのか。
彼はそれほど遠くへは来ていない。同じ街の中に、今も留まったままだ。
別に見つけて欲しいわけではない。本気で家出をしたのだから。
ただ、“逃げる”ということは単純に“遠くへ行く”ことではないと思っていたからで、物理的な距離が遠ければ遠い程、家出をした重みに換算されるわけではないと信じただけに過ぎない。
確かに、これだけ近くにいれば、発見される確率は極めて高い。それも覚悟の上だったが、何カ月経っても、何故か彼は連れ戻されずに済んでいる。
家の者が迎えに来ないだけでなく、警察に見咎められることもない。本来ならば、補導されてもおかしくない年齢だったが、早熟な肉体が彼を助け、未成年であることは殆ど悟られずにいた。ただ働く時だけは、必要以上に年齢を上乗せするのは危険だ。「歳の割に、中身は随分子供だ」と不審に思われては元も子もない。
腕時計はいつのまにか失われていた。
誕生日に祖父が贈ってくれた品だけに、それなりの値打ちがあった。きっと誰かが盗んだのだ。彼はそこまでは理解していたが、犯人が誰であるのかまでは想像できず、また、惜しい品でもなかったので敢えて探さなかった。
時計がない、という事実は、初めのうちだけ彼を不安にさせた。
が、慣れて来ると、時間が正確に分かることに意義などないのだと感じ、太陽が昇れば朝で、沈めば夜だということだけで十分だった。
微かな冷気が、彼の体を震えさせ、浅い眠りから一気に引き戻される。
今日はまだ、あの男は帰って来ないのだろうか。
いつもと違うことが起こっている。
彼の昼間の生活は、常に変化に満ちていた。朝食を摂る場所も時間も、一日の過ごし方も、日雇いのアルバイトも。全く同じものなど、何一つない。
しかし、夜のそれだけは例外だった。
この寂れた地域だけは、毎晩が同じ繰り返しで構成されている。
彼が戻って来る頃、既に人通りは絶えている。一晩中、誰も通らない道の片隅で、彼は静かな夜を迎える。朝になれば、周辺の誰よりも早く起き出し、彼がそこにいた痕跡一つ残さずに立ち去る。
眠る前の日課は、アパートの窓を見上げること。例の男がいないならば、翌朝はその男が彼を起こすだろう。
だからこそ、彼は先程も、男の声を聞いたような気がして顔を上げたのだ。
時間は恐らく、いつもと同じ。男が帰って来る頃だ。
少しだけ迷った。
このまま待ち続けるか。動き出すか。
が、待つことに意味は何一つない。
迂闊に長居すれば、その分、周辺住民の目を引く。見慣れぬ少年が、こんな所に踞っていれば、誰かが噂する。警察が来るかもしれない。もしくは、その噂を聞きつけて、家族が来るかもしれない。
人々が気づく前に、彼は行かなければならない。
別にあの男と約束はない。多分、彼がいなければ、帰宅した男はこう思うだろう。今日は自分が遅かったから、もう行ったんだな、と。
彼の心は決まった。
両膝に力を込めた。
足首を動かし、顔を上げようとした。
確かに、そうしようとした。
残念ながら、彼の意志はそれとは違っていたようで、体は少しも動かなかった。
瞬間、彼は、自分の体がまだ睡眠を欲しているのではないかと考えた。だから動けないのではないか。
試しに目を閉じる。すっかり冴えた頭は、眠りなど要求してはいないようだった。第一、今眠ってしまっては、人々に見つかってしまう。そんな馬鹿なことをする訳がない。だから違う、と彼はこの推論を打ち消す。
では何なのだろう。
なぜ自分はここに留まっているのだろう。
家出のきっかけは些細なことだったように思う。
思う、という言い方には意味がある。
家を出た当初は、それが何よりも重要だった。それを貫き通すことが、すなわち家出の意義なのだと言い聞かせたからだ。これさえ失わなければ、どんな辛い目に遭っても耐えられる。そう励ました。
だがそれも、大きな手荷物と一緒にどこかへ消えてしまった。自分のかつての生活の全てがその時に、同時に切り離されたような感覚だった。
自分が何故家を出たのか、そんなことは何の意味もないと思い直してしまった。
大切なのは、今の生活をいつまでも維持し続けること。今日一日を生き抜くこと。たった一人の、この暮らしに充足し切ること。
家を出てから、彼は多くの人と出会った。様々な人間に接触し、会話した。
その経験が増える度に、自分の自由が益々遠くなって行くような気がする。
自分を取り巻く環境の全てが変わり、生き方も名前すらも以前とは違う。
もう何もかもが自由に満ちているはずなのに、何故自分は縛られているなどと感じるのだろう。
きっと、歳を覚えているせいだ。
彼は自分の本当の年齢を憎々しく数えた。昨日は十八歳、その前は二十一歳だと答えた。名前もその都度変えている。それでもまだ、自分が本当は幾つなのか、しっかりと刻み込まれたまま、消えることはない。
まだ子供なのだ、と解っているから、だからこんなに不自由なんだ。
いつも本当のことを知られるのではないかと怯えるのも、自分がただの子供だからいけないのだ。
冷気は増していた。
昨日までとは違う、この慣れない寒さ。季節が変わるのかもしれない。今日は何月何日だろう。もうそれさえもわからない。
ひとまず彼は、この後のことを考えることにした。
腹部が痛む。昨夜、何も食べずに眠ったのが影響しているらしい。空腹は眠れば解らなくなるから、と無理に目を閉じたが、結果的には朝起きた時に持ち越されるだけで、何の解決にもなっていなかった。
ポケットの中には、折り皺だらけの千円札が八枚。それと硬貨が数百円分。これで後何日生きられるだろう。よくわからない。
何処かで朝食を手に入れたら、また仕事を探そう。今度は、夜まで時間を潰せる方がいい。午前中だけでは、暇を持て余してしまい、結局は無駄遣いに繋がる。
朝から晩まで働いて、そしてここで眠ればいい。そうすれば、金を使う率が減る。
ふと、服の汚れが目に留まる。
新しい服が必要だった。そして、最後に風呂に入ったのが五日前だったことも気づく。
彼は用心深い方だったので、同じ銭湯へは二度と足を向けなかった。いつも違う風呂屋を探して街を歩き続けていた。だが、いくら大きなこの街でも、銭湯の数には限りがある。自分が一度も足を踏み入れていない銭湯が、まだどこかに残っているだろうか。いや、後二日我慢しよう。それよりも、服の方が重要だ。こんな格好では、雇ってくれる所などありはしない。
朝食は何を食べようか。
彼の食事はいつも違っていた。近くのコンビニで弁当を買い、人気のない公園で食べることもあれば、小さな食堂でひっそりと摂ることもある。
体を震わせながら、彼は自分に今一番必要な物が何かということに気づく。
この冷気を遮る物だ。上着が要る。
それを買うのに幾らかかるかを考えると、食事の予算は随分と少なくなった。
何処からともなく、ニュースを読み上げる声が聞こえ出す。周辺の家々がテレビをつけた。人々が今日という生活を始めた合図だ。
夜は完全に明け切っていた。
漸く、彼の傍らに、耳慣れた足音が近づいた。
「なんだ坊主、今日はまだいたのか」
男はいつもと変わらぬ格好で立ち、彼を見下ろした。
何と答えたものか、彼は俯いた。
「もうそろそろ寒くなるぞ。意地張らずに、俺の部屋に来い」
何度目になるかわからない誘い。いつも首を横に振って断って来た。
「家にはまだ帰らないのか? こんなとこに居たら風邪引くぞ」
恐らく、男の言う通り、冬が近い。彼は風邪をひいても、病院へ行くことすらできない身の上だ。そうと知っているからこそ、男も今日ばかりは粘っているのだろう。いつもなら何の反応も返さない彼から、すぐに離れて行く。
「今日って……何日?」
この男と会話をするのは久しぶりだった。
「明日から十月だ」
「そう……」
家を出たのは何月のことだったか。思い出そうとしたが、正確な日付は綺麗に消え去っていた。
「じゃあ、明日から、ここに来ない」
何故そんなことを言い出したのか、彼にはわからない。なんとなく、ただなんとなく、口をついて出た。
「帰るのか?」
帰る。家に。制服を着て、学校に行く。勉強する。話す。遊ぶ。生きる。
「……帰らない……と思う」
やや自信の無い様子に、男は珍しいものを見たとでも言わんばかりの顔で彼を見つめた。
実際、彼にもわからない。
帰りたいとは思わない。帰りたくないとも思っていない。
この生活を続けたいと、切望しているわけではない。前の生活の方が良かった、とも思えない。
今自分は解放され、自由だ。
年齢と名前というしがらみは、まだ有効だ。
「多分……歩いて行って、誰かに見つかったら、一緒に帰る」
抵抗するつもりは最初からない。
彼は家出した当日から、誰かが探しに来たら、その時は帰るだろうと思っていた。
意地でも帰らない、という反抗心は、あの手荷物と一緒に彼の手元から離れていたために。
「おまえ本当は十八じゃないんだろ?」
彼は答えなかった。
それは、その問いかけが耳に入らなかったからで、その時彼は別のことを考えていた。
もしかしたら自分は、変わらない生活の繰り返しを、本当は望んでいるのではないか、と。この男を待っている間の、あの妙な気分はそれではないのか、と。
彼は思い切ってそれをこの男に問おうかとも思った。
だがやめた。
今すぐに家に帰れ、と言われるだけだからだ。
しばし考えた後、彼は立ち上がった。
「夜になったら泊めて。十一時に行くから」
男は心底意外といった顔で彼を見下ろした。気づけば、男と並んで立ったのはこれが初めてで、彼は男の長身をこれまで知らなかった。
「名前と歳さえ言えばな」
「わかった。夜、言う」
それ以上の反論を許さない為に、彼は一気に走った。
突然動き出したせいか、体がややふらついた。が、構わずに進んだ。
走りながら彼は、今夜のことを想像してみる。
あのアパートを訪ねる。
扉を半分開けて、男は名前と歳を訊く。
当然のように彼は本名を答える。
本名。
そこまで考えて、自分が何という名前だったのか、なぜか思い出せないことに気づく。
だが彼は慌てはしなかった。
これはきっと、自分があまりにも空腹で、頭が働かないせいだ。彼はそう感じた。
何かを食べなければならない。今すぐに。
彼は胃の辺りを押さえ、尚も走り続けた。
そう、今日は何処か暖かい場所で、温かい物を満腹になるまで食べ続けよう。
上着の為に使うべきだった金銭は既に遠く、置き去りにされていた。