ハ ッ ピ ネ ス
軽い目眩を感じ、良貴は頭を軽く左右に振った。
柱に寄りかかり、傍らに座り込んだままの克を横目でちらりと見やった後、再び行き交う人々へ視線を戻す。
目の前には古い型の時計が、それだけが取り柄のように正確に時を刻む。六時五十七分。仕事に向かう背広姿の背が、いつもに増して無機質に感じる。
克は先程から変わらず、中学生の時に買ったというギターを手に歌い続けていた。
帰りそびれただけの良貴にとって、その歌声は退屈なだけで、もう何度も繰り返し聞いた曲にややうんざりしていた。
「マサル、そろそろ腹減らない?」
わざと聞こえない振りをしているらしい克は、一曲終わったところで答える。
「別に」
彼の目の前のケースの中には、僅かな小銭があるだけで、それを数えるだけでも良貴は溜め息が出た。
小さなこの駅で、いつからか克は歌い出すようになった。
昔の親友に「一度聴きに来いよ」などと言われ、断れるはずもなく、良貴は時折こうやって朝まで克の横に立つことにしている。克が意外に寂しがりだという事実は昔から変わらず、それを知っているため余計に良貴は帰りにくくなる。
肌寒い朝の空気を吸い込み、良貴はまた周囲を見渡す。電車が走り出し、そしてまた人が増える。
毎朝のようにここで克を見ている人々は、その当たり前の光景に何の反応も示さない。誰も、克の方を見ようともせず、ただ通り過ぎて行くだけだ。
良貴は常々、克の歌はけしてうまい方ではないと感じていて、しかもたった三曲を繰り返し続けるので、義理で付き合っている身としては飽きが来ていた。
悪いことには、良貴は音楽の知識が乏しく、克の歌う曲についても何も知らなかった。
そもそも、克が何か目的意識を持って歌っているのかどうかも知らず、それを聞くのも面倒だと思っていたので、良貴はいつもぼんやりと立っているだけに過ぎない。
克と親しくしていたのは高校の頃の話で、卒業後はあまり交流がなかった。
高校時代、克は音楽の話など一つもしなかったので、現在の彼のこの姿は良貴の目にやや不自然に映る。このギターも中学生の時に得たというのだから、多分、良貴が知らなかっただけで、高校の頃にも何かしらの活動はしていたのかもしれない。
それにしても、と良貴は思う。
道楽で大学に行っている自分とは違い、克は昼はしっかりと講義を聞き、夕方からはアルバイト、深夜になると駅で座り込む。この生活で、寝る時間はどこに組み込まれているのだろう。
高校を卒業する時、克はその後の進路がまだ確定していなかった。
一年後、何故か法学部へ入学したという噂を聞き、耳を疑った。再会した彼の口から、
「検事って、なんかいいよな」
などという呟きが漏れた時には、自分の頭の働きすべてを疑った。
高校三年間、何か彼を誤解して過ごしていたのか。それとも、今何か聞き間違いがあったのか。自分は「検事」という職業を何か別のものと混同しているのか。
次々と発車していくホームで、良貴は腕を組んだまま、克が動くのを待つ。
既に八時近い。
もうそろそろかな、と思う。
克は相変わらず同じ曲を歌い続ける。よく声が続くものだと感心するが、技術面で劣っているために、それ以外に褒めるべき点がない。
やがて駅に着いた電車から、駆け寄って来る人影が一つ。
「まさるーっ」
途端に、克の手は止まる。
「かよこ」
良貴が知っているのは、「かよこ」という名前と、自分達と同じ年で、克と同じ法学部の学生だということだけだ。
もしかしたら、克と付き合っているのかもしれなかったが、そこまで聞くのは下世話なことだろうと、さすがに口に出せずにいる。
いつものことだ。
かよこが迎えに来る。克はいそいそと片付け始め、大学へ向かう。そして別れ際、必ずこう言うのだ。
「じゃあ、良貴。また今夜な」
今夜もまた来いと言われても、良貴は週のうち二、三回しかここへは来ない。
克を見ていると、何もしようとしない自分の姿が妙に鼻につく。それが悔しく、良貴にはやるせない。
そして今、荷物をまとめ終えた克は、軽く手を上げる。
「じゃ、行くから。良貴、今夜またな」
駅に入って来た次の電車で、良貴は自宅へ戻った。
克に付き合った朝は必ず、夕方まで眠る。目が覚めてから初めて、夜の予定を考えることにしている。
ベッドの中で目を閉じると、克の歌うあの曲が浮かぶ。
何度も繰り返されたあの曲。ふとした瞬間、それを口ずさみそうになる。けれどなぜか、歌詞だけが思い出せず、いつもそのフレーズはサビの部分で途切れる。
二日経って、また良貴は深夜の駅へ向かった。
終電から降り立った良貴は、いつも場所にかよこがいるのを認め、首を傾げながら近づいた。
「こんばんは」
良貴の接近に気付いていたかよこは、いつもと同じ人懐っこい笑顔で迎える。
「……こんばんは」
当たり前といえば当たり前の、だがどこか照れくさい挨拶言葉を返し、良貴は周囲を見渡した。
「まさるは夜食買いに行ってるの」
「ああ……」
そうか。と続けるつもりで途切れた言葉に、かよこが自分の横の柱を指差す。
「どうぞ。良貴くんの指定席」
別にそこが気に入っているわけではない。
ただ、克の横に座り込むのが嫌で、そして立っているとなると背もたれが欲しいというだけの理由で、ついついそこが定位置になってしまっているのだ。
勧められた以上、行かないわけにもいかず、良貴はいつもの位置に立った。
終電に乗り損ねた若者の集団は、しばらくホームに留まった後、意見がまとまったらしく、「カラオケ行くぞ」との叫びと共に階段へと姿を消す。
ベンチに座ったまま眠ってしまったサラリーマン。何かを待つかのように佇む少年達。
長い沈黙が始まる。
いつものように克が歌わなければ、ここはいつまで経っても、気怠いアルコールの余韻に満たされ続けることになる。
良貴は早く克が戻ればいいと感じていた。
かよこと二人きりでは、間が持たない。
彼女は自分とは違う種類の人間なのだと、良貴は認識する。明るい陽光の下で、前だけを見据えて生活するようなタイプに見えたからだ。
無目的な自分では、彼女の話し相手にすらなるまい。
意外性に満ちた克でさえ、ご大層な希望を抱いているのだ。おそらく彼女も、克のそういった前向きな姿勢を気に入っているのだろう。
柱に寄りかかったまま、良貴は目の前の時計を眺めた。
遅い。
どこまで行ったのか、克はまだ戻らない。
いつまでも無言のままでいられるはずもなく、良貴は溜め息と共に口を開く。
「かよこさんも、検事志望?」
何を話していいのかわからない良貴は、とりあえず無難な質問から始めてみる。
突然ぶつけられた質問に、少しだけ驚いた顔でかよこは良貴を見上げ、それから首を傾げた。
「……『も』って、まさるは検事になりたいのかぁ」
「違うの?」
知らなかったのか?
自分はもしかしたら、何かまずいことを言ったのではないか。
克が冗談で検事の話をしたのでないとすれば、かよこには敢えて隠していたことになる。それを、第三者の自分がべらべらと喋っていいものなのか。
「まさるって、そういう話してくれないのよね、私には」
「だったら……」
だったら、克のどこが良くて、いつも早朝から迎えにまで来るのか。
「そっかぁ。だからまさる、あんなに楽しそうにしてるんだぁ」
一人納得するかよこに、それ以上どう問いかけていいのかわからず、良貴はまた時計を仰いだ。
確かに、克はいつも充実していた。
どれほど過密なスケジュールを組んでも、疲労の陰など伺えないほどに。
ただ流されるままに付き合っている良貴など、その日一日を怠惰に過ごしているというのに。
思わず、克とはどういう関係なのか、と問いたくなる。
が、女性にそれを聞くことこそ、失礼に思え、良貴はまた別の糸口を探す。
良貴はさほど親しくない人間と、何もせずただ時間を過ごすのが嫌いな方で、とにかく何でもいいから話していたかった。
が、良貴が何か言いかけるより先に、かよこが口火を切る。
「なんか、まさるってちょっと羨ましかったりするのよね」
「ああ」
「そういう楽しそうなとこ、分けて欲しいなーなんて思っちゃって……」
なんとなく。なんとなくではあったが、かよこと克の関係が理解できたような気がして、良貴は俯いた。
それきり、かよこは何も言わず、良貴もかけるべき言葉を見つけられなかった。
程なく、克が湯気の立つ三人分の紙袋を下げて戻る。
「ほらな。やっぱり良貴の分も買って正解だ」
無造作に袋を良貴の手に放り出し、克はギターを手にして大きく息を吸い込み、いつもの曲を奏で始める。
なぜか今夜のその歌だけは、やけに上手く聞こえた。
三日振りになる大学へ顔を出し、良貴は中学で克と一緒だったという男と昼食を摂った。
「そうそう、そういう奴だった」
食堂のうどんを啜り、額の汗を拭いながら、彼は大きく頷く。
「冬休み明けにさ、ギター持って来て、お年玉全部使ったって自慢してたな」
彼の話はすぐに脱線し、その頃のクラスメートの思い出などを語りだした。あまり興味のない話を辛抱強く聞き、良貴は適当に相づちを打つ。
日替わりの定食のハンバーグを箸でつつき、良貴は相手に気付かれぬ程度に他のテーブルを見回した。
学生達の会話の殆どが聞こえて来る。
午後からどこへ遊びに行こうか。午前中の講義は眠たかった。次の試験の時は誰からノートを借りようか。バイトがあるから、今日はもう帰る。
どれもこれも似たり寄ったりの、あまり生産的ではない話題。
そして、今自分達二人がしている会話も、さして有意義なものとも思えない。
再び相手の方へ目を向けると、彼は丼を口元に当て、最後の一滴を飲み干そうとしていた。
一息つけ、彼はまた昔話を再開し、思い出し笑いに口の端を歪める。
こいつは、人を退屈させるのが本当に得意だな。良貴はつくづくそう感じる。
やがて二人は食事を終え、席を立つ。
長い話の最後に、彼はこう付け加えた。
「でも、いまいちよくわかんない奴だよな。思いつきで行動するから」
その部分だけは、良貴も納得できた。
高校に入ってからも、克は沢山のことに興味を示し、何にでも手を出した。そしてどれも長続きせずに終わるのだ。
自宅へ帰る電車の中、良貴は窓の向こうにいつもの駅のあの柱を見た。
夕刻のホームは、まだ人も少なく、しかし深夜にはない活気があった。
まだ克は現れない時間帯の駅。良貴も、屯する少年達もいない。知らない空間に思え、良貴はなぜか不安になる。
不意に、かよこの寂しげな顔が浮かぶ。
光につられ集まる小さな羽虫のような自分。
赤く染まるホームを遠くに感じ、良貴は車内へ視線を移す。
帰宅途中の女子高生がドーナツの袋を開ける。
腰の曲がった老婦人の前で、突然眠っている振りをし始める紳士。
日常的な光景にも、また不安がよぎる。
家に帰ってみると、高校の同級生から葉書が届いていた。
見知らぬ女が隣に写っている写真のついたその葉書には、『結婚しました』とある。
こいつはあれから何をしていたんだったっけ。良貴はもう思い出せない日々を回想しようとした。だが、彼と学校を抜け出してコンビニに行ったことや、彼が授業中に笑いを取ろうと必死に考え出したジョークは朧気に浮かぶものの、肝心なことだけは、やはり思い出せなかった。
写真を見る限り、あまり変わってはいないようだった。要領の悪い男だったはずなのに、隣の女は意外に美人だ。
葉書の裏と表を何度かひっくり返して見た後、良貴はそれを机の上に投げ出し、ベッドの上に身を横たえた。
疲れた。そう言いかけてやめた。
特別、疲れてなどいないことに気付いたからだ。何もしていない。けれど、他に思いつく言葉がない。
部屋の時計は六時。克のいる駅へ行くにはまだ早い。いや、そもそも昨日行ったばかりだ。今日はやめておこう。
しばらく考えた後、結局ぽつりと呟いた。
「疲れた」
朝日のあまりの眩しさに目を覚ましたのは、丁度七時だった。
昨夜は窓を閉めなかった上に、カーテンもしていなかった。
小さく舌打ちし、良貴は汗で額に張り付いた前髪を掻き上げた。
夢の中でも、克が歌っていたような気分だ。
実際のところ、自分がどんな夢を見たかなど、良貴は覚えていない。ただ、あまりに目覚めが悪かったので、そんな気になっただけに過ぎない。
ベッドの上に座り込んだまま、良貴は傍らのテーブルに手を伸ばし、灰皿と煙草を引き寄せる。肝心のライターが目につく場所になかったので、昨日着ていた上着の内ポケットを探った。マッチの一つでも出て来るはずだ。
案の定、どこかのバーのマッチが一つ入っており、それで火をつける。
こんな時間に起きることなど稀だ。
克といる時は、この時間はまだ駅にいるが、それは前の晩の延長なので論外だ。
短く煙を吐き出した後、良貴はするべきことが何一つない自分につくづくうんざりする。
今日は大学へ行かなくてもいい日だ。本当に行かなければならない時には寝坊ばかりだというのに、こんな日に限って早起きしてしまう。そして、特別な予定が一つもない。
一瞬、二度寝、という言葉が頭に浮かんだ。が、それを実行するには、すっきりと目覚めてしまい過ぎている。
もう眠れないな。
室内を見渡し、床に転がるテレビのリモコンを拾い上げた。
天気予報は、今日も晴れだと告げている。
朝食になりそうなものが冷蔵庫に何一つない。
良貴はまた溜め息をつき、靴を履いた。
一番近いコンビニは、良貴の口にはなぜか合わなかったので、少し離れたスーパーまで出向くことになる。
近所の小学生が脇を走り抜ける。自分にもあんな頃が確かにあった。けれどそれはあまりに遠い。あの頃は、深刻に日一日について考えることなどなかった。
来たついでに、と三日分の食料を買い溜めし、良貴は外へ出た。日は既に高い。あまりの眩しさに思わず目を細め、それから自分の方を見て立ち止まる女性に気付く。
「かよこさん」
名を呼ばれ、相手は微笑みを返した。
「おはよう、良貴くん」<>
彼女がどこに住んでいるのかまでは、良貴は知らない。今こうやって出会っても、「この辺りにすんでるの?」という問いかけをする気にもならない。
「これから、克のお迎え?」
「そう。検事になるんでしょ? だったら、前以上に厳しく大学まで引っ張って行かないとね」
彼女は、自分に対し秘密を抱いていたことに、何も感じることはないのだろうか。
俺だったら怒るな、と良貴は思ったが、考えようによっては、赤の他人である良貴の前ではその素振りを見せないだけで、内心はひどく傷ついているのかもしれなかった。
「すごい荷物……。これ、全部良貴くん一人で食べるの?」
「一人で食べるけど、三日分だから」
「あ、食べるもの何もなかったんでしょ。明日も同じように朝から買い出しに出るの嫌だから、いっぱい買っちゃったんでしょ?」
「わかる?」
「良貴くん、面倒なこと嫌みたいだからねー」
数えるほどしか会ったことのない女ではあったが、見るべきところは見ているらしかった。
良貴は曖昧に頷き、かよこを促して歩き出した。
「ここからだと、あの駅まで三十分くらいだろ? 急がないと間に合わないんじゃないか?」
指摘されて始めて気付いたように、かよこは腕時計を見る。
「本当。まさるって、私が行かないといつまででも歌ってるのよね。大変」
そうとも限らない。
日曜など、かよこの来ない日は、適当なところで切り上げて帰るのだから。
が、そこまで言う必要はないだろう。良貴は軽くその背中を押した。
「わかってるなら、さっさと行ってやってよ。克、可哀想だろ?」
満面の笑みを良貴に残し、かよこは駆け出して行った。
良貴はポケットから小銭を数枚取り出し、路地裏の自動販売機で缶コーヒーを一本買う。
三日ほど、良貴は克のところへ行かなかった。
避けていたわけではなく、ただ別口で用事が入っただけだ。たまたま大学の仲間に誘われ、コンパや麻雀に興じて過ごした。
久々に降り立った駅は、いつもとは打って変わって騒がしかった。
それでも構うことなく歌い続けている克の横へ行き、良貴はすぐには答えの返らないとわかっている問いを投げかけてみる。
「何か今日は、随分賑やかだな」
一曲終えたところで、克は答える。
「掏摸が掴まったんだ。こんな小さな駅だから、珍しかったんだろうな」
その言い方に、良貴は驚きを感じる。
確かに、歌うにしてはこの駅は小さ過ぎた。人もあまり来ない夜のこの駅で、何のメリットがあって歌うのかと思っていたのだが、克本人も、ここが小さいことをわかった上で行動していたのか。
「スリねぇ……」
「刑事らしいのが二人で、おっさんを引っ張って行ったぞ。でも、テレビのドラマみたいなのとは違った感じだった」
残念ながら、良貴は刑事物のドラマにあまり興味がなかったので、テレビではどう表現されているのかも、それと違った感じというのも想像できなかった。
それだけ話し終えると、また克は歌い出す。
よくよく歌詞を聞いていると、どうやらそれは悲恋を歌った曲のようだった。いつも聞いていながら、そんなことに今更気付く自分に良貴は苦笑した。
いつも通り、朝を迎え、良貴は小さな欠伸をする。
どうして克はいつもいつも、眠くならないのだろう。つまらないことに良貴は感心する。
時刻は既に八時二十分。
もうとっくにかよこが来ていてもいい頃だというのに、今日は随分と遅れている。
実は良貴は、連日の夜遊びの疲れからか、早く帰って寝たかった。
「今日はかよこさん、遅いんだな」
確か、月曜日は、朝から講義が入っている日だったように思う。必ずかよこが来る日だ。
歌い終えた克は、朝靄の中、嚔をして答える。
「あいつ、留学決まったんだ。その準備で忙しいから、もう来ないんじゃないかな」
そんな話、今始めて聞いた。
「先週末に決まったらしい。俺も、昨日電話で聞いてびっくりした」
「いつ?」
「来月だったか再来月だったか……まだ詳しく聞いてない」
早口にそう言い放ち、克は再び歌い出す。
「寂しくなるな」
いや、そんなことよりも、自分が帰るタイミングが、ますます計りにくくなる。思わず漏れた溜め息をどう受け取ったのか、克は次にこう言葉をつなぐ。
「何も見つけられない、とかって言ってたのに、ちゃっかりしてるよな」
少し拗ねたような口調だった。
「おまえも、検事目指してるだろ?」
「そのつもりだった……けど」
「けど?」
次の曲を歌い出す前に、克は遠い目で呟く。
「なぁ、刑事って、なんかいいよな」
急に可笑しさが込み上げた。
そう、自分が知っている克は、何にでも興味を持ち、そしてすぐに飽きるのだ。
こんな自分にも、何か見つけられるだろうか。
良貴は電車に乗り込む人々を見つめた。
その一つ一つの顔を眺め続けると、自分もその中に紛れ込んでいるようで、言葉では言い表せない複雑な感情が浮かぶ。
いや、まだ大丈夫だろう。
良貴はまた欠伸をし、克を見下ろした。
「じゃあ、俺、帰るな。今晩また来る」
来い、と言われたことは何度もある。が、自分から来るなどと言ったことは、これまで一度もない。
本当に来るつもりがあるかどうか、良貴にもわからなかったが、なぜか今は、そう言って別れたい気がした。