虹 の あ る 街
二人で二年を刻んだ部屋を開いた時、出迎えるはずの清佳の姿がなぜかそこにない。
不審に思いながらも靴を脱ぎ捨て、亨は留守番電話のメッセージを再生した。
夕刻、二人で何度も歩いた商店街。
顔を合わせる回数が増えるのと同時に親しくなった土地の人々。
昨日まではそれらのものが、全て小さな幸福の象徴のように思えていたはずだというのに、今の亨には煩わしくさえあった。
清佳と暮らし始めて間もなくの頃だったろうか。亨は来た道を一度だけ振り返り、後をついてくる人影の一つもないことを確認し、また歩き出す。
そうだ、あれは二週間目だった。
友人に誘われるままに居酒屋へ行き、そのままついつい付き合わされ、帰途に着いたのは真夜中だった。清佳はただ「お帰りなさい」としか言わなかった。そして亨は、テーブルの上に並べられた幾つかの小鉢と、伏せられたままの碗を見た。
しかし亨は別に何も言わなかった。ただ、これからは、夕食がいらない時にはそれと連絡しなくてはならないということを悟っただけだった。今までのような、気まぐれな食生活は許されないのだと。
謝る必要はなかった。
亨が謝ったからといって、清佳が料理を作った手間が贖われるわけではないのだから。
勿論、今から無理矢理口に運ぶというのも、正しい行為ではない。
おそらくテーブルの反対側には、清佳用の食器が並べられていたはずだ。多分、清佳はしばらくの間二人分の夕食の前で亨の帰りを待っていたのだろう。だが結局、清佳は一人でそれを食べた。それも、完全に料理が冷え切ってしまった頃に。
清佳が望んだのは、亨が一人で食べることでもなければ、冷えた料理に手をつけることでもない。まだ温かい内に、二人で向かい合って食事をすることだったはずだ。
だからこそ、亨は何も言わずにベッドに潜り込んだのだ。
なぜ今になって、こんなことを思い出すのだろう。あれはもう、二年以上も前のことだというのに。
まだ亨の収入が二人分の家計に追い付かなかった二年前、旧友の結婚式に行くためのスーツを探した店の前で立ち止まり、亨はウィンドゥを眺める。
二年の間にその古着屋は、ゼロが四つもつく値札を下げた婦人服を扱う店へと変貌していた。無精髭を生やしていた店主はどこかへ姿を消し、まだ二十代半ばにも達していないと思われる背の高い、若い娘が忙しなく動き回っている。
あの冷えた料理が原因だったのか、それから二週間と経たぬ間に、清佳は出て行った。何も言わずに姿を消した清佳を求めて、亨は思いつく限りの場所を尋ね歩いた。そうしてやっとの思いで、親友の部屋に隠れていた清佳を見つけたのだ。
今にして思えば、形振り構わず女を捜し回るなどという真似が、よくできたものだ。
もう自分でも何を言ったのか、その全てを思い出すことはできない。だが、思いつく限りの言葉を並べて訴えた。ただただ、帰って来てほしいのだ、と。
清佳はいつもと同じ笑顔で頷いてくれた。
そして亨の手を握り、「帰ろっか」と明るく促した。
軽く目を伏せ、亨はその日の街並みを思い描いた。
日が暮れる直前だったように思う。二人で手を繋いで歩いた。
凱旋、という言葉が頭に突然浮かんだので、照れながら清佳に言うと、彼女は「じゃあ胸を張って行進してみる? 足並み揃えて?」と返した。
そう、確かにあの日、二人はやり直した。
離れて過ごしたその三日間は、それ以前の一人で暮らしていた頃には感じたことのなかった思いを与えた。だから亨は、清佳にそれを伝え、彼女もまた同じだったことを確認した。
その日から数えて二年。
悪くない生活だった。互いの領域を侵さず、必要な時には互いに慰め合う。同じ物を見て、同じ道を歩き、一つの時間を分け合った。
だがそれはあくまでも、友人同士の同居の域を超えることのない、そんな生活でしかなかったのかもしれない。
通い慣れた駅の前で、亨はまた立ち止まる。
早朝の駅にはいつも、ギターを抱えた若い男がいて歌っている。時折、友人らしい男が傍らにいる。けして上手くはないその歌を耳にする度、亨は現実の厳しさを思い知らされるようで身震いした。
帰宅時間はまちまちで、早い時はまだ日が落ちる前にこの駅に戻って来る。遅い日はいつも、全ての店の照明が落ちた道を歩く。
亨はどちらかと言えば夕刻の駅が好きだった。階段を降りる間、遠くに聞こえるざわめきが。降り立った瞬間、目に入る日差しが。
そのアーケードから降り注ぐ陽は、丁度その時間、敷石を不思議な色彩に見せる効果を持っていた。また、光で構成されるヴェール越しの街並みは、どこか幻想的に感じ、ロマンチストな面を持つ亨をいたく満足させてくれた。
それを清佳に説明すると、彼女は言葉だけでは理解できなかったらしく、亨の手を引いて外へと連れ出し、「ああ、これのことだったの?」と道の真ん中でそれを目にして初めて感嘆の息を漏らした。
去年、だったか。
確か夏だったように思う。
いや間違いない、夏だ。よく晴れた午後、昼食後に近くの公園で休んだ時だ。そんな心地よい天候も、夕刻にはひどい大雨へと変化した。
駅でもコンビニでも、ビニール傘は買えたのだが、亨はそれを横目で見ただけに留まり、購入には至らなかった。
既に部屋の中には同じタイプの傘が三本あり、その時と似たような状況下で買った物だったが、どれも二度と使うことなく玄関先に置かれたままだ。これ以上増やすのは遠慮したい、そう思った。
だが通い慣れた駅に着いた時には、雨はますます激しさを増し、鞄で頭を覆って走られるような生易しいものではなさそうだった。
偶然、横合いで年配の紳士が、出迎えた女性から傘を受け取っているのを目にした。その夫婦の笑顔が無性に羨ましくて、亨はつい清佳に電話をかけた。
十五分後に清佳は息を切らして駆けつけた。そうして亨に詫びたのだ。「ごめんなさい。今度からは先に来て、ここで貴方を待っていてあげるから」
残念ながら、それ以後、突然の雨に亨が出くわすことは一度としてなかったのだけれど。
正直、亨は今迷っていた。
二年前と同じように、また消えてしまった清佳を探して歩き回ろうか。
だが今度は、二年前とは全てが違っている。
あの日清佳は黙って姿を消した。何も言わずに出て行った。
しかし昨日はそれとは明らかに違う。
留守番電話には、清佳の声が入っていた。どこか外からかけて来たのだろう。大勢の人の話し声が清佳の聞き慣れた声と共に吹き込まれていた。
彼女はいつもと同じ明るい声で、普段亨に話しかける時と何ら変わらぬ調子で告げた。「ごめんね」と。
しばらく間があって、その後にはっきりと、別れの理由を述べていた。
亨に落ち度があった訳でもなく、この生活に飽きた訳でもない。ただ、違う男と違う生活を始めるために出て行くのだと。
改札の前で、亨はポケットの小銭を探った。
まず前と同じように、彼女の親友、職場関係、学生時代の仲間達、そして両親の所へ。そこまで行く料金はいつからか頭の中に叩き込まれていて、誰がどの駅の沿線なのかも簡単に思い出せる。
それにしても、と亨は思う。
仮にまた清佳を見つけ出したとして、自分はどうするのだろう。
あの時と同じように謝って、清佳が根負けするくらい、土下座をし続けるのだろうか。それとも、ちゃんと顔を合わせた上で、自分の口から別れの言葉を発し、快く彼女を送り出しでもするのだろうか。
何をしたいのかすら、亨にはよくわかっていなかった。
百円を二枚放り込み、切符を買いかけた時。
乗るつもりだった電車が間もなく発車することを知った。
ホームに響き渡るそのベルは、下にいる亨の耳にも届く。
それは、清佳からの最後のメッセージの向こう側で微かに響いていた音とよく似ていた。
ああそうか。清佳はこの駅から電話をして来たのか。
ここで切符を買った後、改札の手前で、清佳は亨の部屋に電話をしたのだろう。
甲高い女の話し声に、思わず振り返る。
携帯電話を耳に当て、立ち止まって話をする女性が一人。だがそれは清佳ではない。知っていて亨は振り返った。
きっと清佳も、こんな風にあのメッセージを吹き込んだのだ。その姿を思い描こうと、亨はその女を見つめた。赤い爪をした女の姿は、しかしどうしてもあの清佳とは重ねられない。
軽く目を伏せ、亨は券売機の中の二百円を戻し、ポケットへと入れる。
清佳が、自分に会わずに去ることを選んだのにはきっと何か彼女なりの理由がある。亨はそう言い聞かせてみた。納得させられる自信は殆ど無かったにも関わらず。
それでも亨は来た道を戻ることを選ぶ。
そしてもう一度、先程の言葉を自分に繰り返す。心からそう思えるまで呟き続けて歩いていれば、きっと、待つ者のない、自分一人きりの部屋の前に辿り着く。そうして眠れば、朝には何もかも忘れられる。
何の根拠もないままに、亨は歩き出した。それが叶わぬことも、亨は十分知っていたというのに。
なぜならば。
今戻るこの道に在るもの全てが、清佳の面影を焼き付けている。