SHINING DROPS

 徹也はその温もりを忘れない。
 既に年齢は二十を超えていたが、まだ十代前半だった頃に感じたような、あの込み上げる想いが蘇った。
 あの朝、彼女は信じられない勢いで走り込んで来た。
 丁度、朝日を背にし真っ直ぐに駆けて来て、目を細める徹也の胸に飛び込んだ。その体当たりのような凄まじさに、思わず足が二、三歩後退したくらいだ。
 重ねた口唇の感触は、残念なことに、それまでに様々な女と繰り返して来たそれと全く変わらなかったが、気持ちの高ぶりはいつもとは違っていた。
 放課後の校舎裏で、部活の先輩と交わしたキス。自分は学生服を着ていた。禁止されているパーマをかけていたあの先輩は、徹也が微かに震えていることに気づいて笑った。
「女の子とキスするの、初めて?」
 恥ずかしくなって俯いた徹也の髪をそっと撫で、こう続けた。
「大丈夫。私もだから」
 今なら、あれが年長の女性の、精一杯の嘘だったことがわかる。
 あの頃に戻ったようだ。徹也は、最愛の女性を腕に抱きながら、他の、それも遠い昔の女のことを考えている自分が少しだけ情けなかった。
 中学生だった自分。あの高揚は思い出せても、素朴な純真さは失われている。
 けれど、これから先、彼女と一緒にいるのなら、それすらも取り戻せてしまうのではないか。そんな錯覚すらも徹也は抱いていた。


 初めて彼女を見た日は雨だった。
 天気予報が外れ、突然降り出した雨だった。土砂降りの中、雨宿り先を探して走り出した徹也は、張り出した軒先に先客を見つけて思わず立ち止まった。
 彼女は泣いていた。
 頭から流れ落ちる雫を、そう見間違えたのかもしれない。
 他に行く先を手近な所に見出せなかったため、徹也は無理にそう言い聞かせ、彼女の隣へ駆け込んだ。同時に、彼女は慌てた様子で頬を拭った。
 やっぱり泣いていたんだ。
 その様子が、何故か気になって、たまらず徹也は彼女に話しかけた。いつもなら、その程度のことで他人に関わるはずなどなかったが、つい数十分前までいた喫茶店で、隣のテーブルで痴話喧嘩をする男女を見てしまっていたのが災いしたのかもしれない。浮気性の男の作り話を、責めることもなく泣きながら聞き続けている女があまりにも哀れだった。見ず知らずの徹也ですらそう思ってしまうほどの状態だった。そんなものを見てしまった直後に、また別の女の泣き顔に出くわしてしまっては、彼女もあれと似たような目にあったのかもしれないと、余計な邪推をして同情してしまったのだ。
「平気ですか?」
 妙な言葉をかけてしまった、と言ってしまってから悔いた。しかし彼女はこちらを一瞥しただけでまた正面に向き直り、押し殺した声で「はい」と答えた。
 アスファルトを打つ雨音が何より耳障りで不愉快だった。だが徹也の耳には、彼女の声はやけに鮮明に響いた。


 人の縁は不思議なものだ。何がきっかけになるかわからない。
 結果的にはその場で徹也がナンパしたようなものだが、それから後は長い時間を要した。
 彼女の良き相談相手になり、顔を合わせる回数が増え続け、そして徹也は自分の気持ちが何処にあるかを悟り出す。それは次第に相手へも伝わる。ごく自然に、流れるべくして流れていった。
 そうしてあの朝、彼女は長年付き合っていた男に別れを告げた。婚約指輪を外した彼女はそのまま、徹也との待ち合わせ場所へ走って来た。息を切らし、「もう若くないからダメね」と笑い、額には僅かに汗が滲む。
 この日初めて、徹也は彼女の口唇を味わった。それまでは、そうすることで大切に育てて来たものが砕け散るのではないかと不安に感じ、できずにいた。まるで十三歳の頃のようだ。当時も同じような不安が、徹也の行動を阻んだ。
 彼女は今年、三十になる。その年齢差が、時折彼女を翳らせる。
「あなたはまだ学生なんだから。無理しなくてもいいの」
 ともすればすぐにでも、“結婚”という言葉を口にしそうになる徹也を、彼女は軽く諫める。
 そんな時の彼女の優しい笑みを見る度に、徹也は中学時代の先輩を思い出す。あの人の優しさは、半分は虚栄だった。年上の人間がよく見せたがる素振りだ。おそらく彼女も本当は、早く結婚を、と焦りを感じているはずなのに。


 姉から結婚式の写真が届いたのは、やはり雨の午後だった。
 どうしても実家に帰る都合がつけられなかった徹也には、純白のドレスを着た姉の姿を見るのはこれが初めてだった。姉は先月で二十四になったはずだった。昔と変わらぬ、童女のような眼差しで微笑む写真には妙な違和感がある。小さな子供が突然大きくなって大人になったのを目にしたような気分だ。相手の男は漁師だと聞いている。浅黒く日焼けした顔は頼もしく見え、徹也を安堵させる。一通り目を通した後、また元の封筒に収めた。
 彼女ならばきっと、この写真の姉の何倍も幸せそうに映るはずだ。そんな写真を撮ったら、今度は自分が姉に送りつけてやろう。
 そんな空想を楽しんでいた時だった。電話が鳴った。
 突然のことに動転した母が、徹也に相談してもどうにもならないということすら思い至らずにかけて来てしまったのだ。
「てっちゃん!? 大変なの! お姉ちゃんが!」
 姉は結婚後僅か二週間で離婚した。


 後から父に聞いたところでは、新居に派手な女が訪れたことが原因だそうだ。
 その水商売風の女は、子供が出来たから金をよこせ、と上がり込んで来たという。亭主にはしっかりと身に覚えがあった。姉はそのまま飛び出して実家に帰り、二人の仲は修復されることなく終わった。
 実は徹也は、近いうちに訪ねて行って、「お義兄さん、姉をよろしくお願いします」と挨拶をするつもりだったのだが、一度もその男を義兄と呼ぶことなく全てが無に帰した。その場で男を「お義兄さん」と呼べるかどうか、一人きりの部屋で何度も練習したというのに。
 徹也は男の浅はかさを呪い、姉の見る目の無さに溜め息が漏れた。
 だが、自分達は違う。
 自分と彼女は、深く想い合っている。こうして目を閉じれば、いつでも彼女の顔が浮かぶ。笑っている彼女。眉をつり上げた彼女。涙を浮かべる彼女。自分は彼女の全てを見ている。何もかも見た上で、そして作り上げて来た関係だ。
 徹也は今、彼女がいるという事実だけで幸せになれることを実感していた。
 既に苦い思い出となった初恋の、あの頃感じていたのと同じ幸福だった。長く忘れていた感情に、最初は戸惑いもしたが、その時期も過ぎた。
 これからすべきことは、彼女と共に過ごす時間を作り続けること。


 また徹也は、あの朝の温もりを思い出す。
 遠くから迫って来るシルエット。顔を見なくても誰なのかわかる。
 徹也の姿を認めたのだろう、足が更に力強く前へと踏み出される。足音と、息遣い。ヒールを履いた足が、時々バランスを崩しながらも、それでも少しでも早く、と徹也に近づく。
 朝日が眩しかった。こんなに良い天気は久しぶりだ。徹也は目を逸らさない。
 抱き留めた体が、前日よりも身近に感じられ、嬉しかった。
 左手にまだ指輪の痕が残っており、その鮮明さが却って徹也を奮起させる。彼女は真っ先に自分の所へ来た。何処へも寄らずに、その足で来てくれた。
 この痕が消えたら、今度は自分が新しい指輪を彼女に渡そう。徹也の指輪によって残される痕は、永久に消えることはない。
 ごく自然に合わせた口唇は、徹也の思い出の中には無い、全く知らない未来図をよぎらせる。
 暖かな陽射しを感じながら、まだ誰一人として通らない早朝の道。二人同時に目を伏せた。
 この朝を、けして忘れたりはしない。徹也は強くそう感じた。