星 の 棲 む 川

    1.

 学生時代、貴文が通った公園は、三つの高層ビルへと変貌を遂げた。
 周囲を覆う木々は一本も残されなかった。
 芝生ばかりの、子供にとっては遊具一つないつまらない場所だったが、近くに住む老人や貴文達のような金の無い学生が穏やかに時を過ごすにはうってつけで、暇な午後には一メートル毎にあるベンチの一つに腰を下ろしぼんやり空を見上げる。
 小さなせせらぎがお情け程度に存在し、貴文も子供の時分には靴を脱ぎ捨てて日暮れまで水面を凝視したものだ。
 町内の子供達の面倒見の良い貴文は、中学高校と、常に彼等の兄貴分として慕われ続けた。それは、まだ甲高い声の小学生だった彼等の身長が、貴文と並ぶ程度まで伸びても変わらなかった。
 仲の良い子と喧嘩した時も助け船を出してやった。不器用な恋愛についての相談にも乗った。将来への不安や悩みも、貴文は自分の時間を割いて真剣に聞いてやった。
 中でも和美と亮平の件は、町内での貴文の株を更に上げるのに一役買ったと言っていい。
 狭い町内のこと、この二人の成り行きを温かく見守る人々は数知れず、あれから五年経った今でも、「さすがは貴ちゃん、町内みんなの兄ちゃんだよ」と人が三人集まればその話題になる。
 だが当の貴文には、それほど大袈裟な働きをした覚えはなかった。お互いに想い合っている同士の橋渡しをしただけの、ただそれだけのことだった。
 高校三年の冬、貴文の家を訪ねて来た亮平はまだ中学生で、言い出しにくいことを切り出すまでに一時間近くかかった。おずおずと差し出したのは亮平宛の封筒で、差出人は貴文の知らぬ隣町の女子高生からだった。
「試合の時、たまたま通りかかったって……」
 手紙には確かにその通りの内容が書かれていて、緊迫した場面での亮平の逆転ホームランに心を奪われた、とあった。
 その試合なら、貴文も知っている。応援に来てくれと言われ、出向いて行ったからだ。だが亮平の活躍はその一本に留まり、結果は惨敗、あまりその話題には触れたくはなかった。どうやら彼女は本当に通りすがりに見ただけで、その後どうなったかまでは知らないようだ。
 亮平も、この女子高生に会ったことはなく、二、三日前に知り合いを介して渡されたものらしかった。
「でも俺、好きな子いるんだ」
 勢い付いた亮平は、それが和美であることも告げた。和美は、幼稚園に通っていた頃から貴文に懐いていた子供の一人だった。
 亮平の慎ましい望みは、とりあえず和美と同じ高校に通うことだけで、それ以上のことは何一つ考えていなかった。
 貴文は可愛がって来た少年達の為、この女子高生のことも引き受け、和美の志望校も調べ上げ、ついには亮平の家庭教師役にもなった。
 そして春、見事に同じ高校に通うことになった二人の、次のステップへの応援も、貴文の役目となった。
 この事実は後に、「貴ちゃんは自分のことなんてそっちのけで頑張った」と賞賛を浴びることになる。
 というのも、貴文は大学入試に失敗し、一年浪人することになったからで、人々はこれを、受験勉強よりも二人の為に尽くすことを選び、その後のアフターケアまで付き合った、と美談として語り継いだのだが、実際、貴文には真剣に受験に取り組む暇くらいはあったのである。実力を出し切った上で一校も受からず、予備校に行くだけの生活では、時間に余裕が出来過ぎたために、この二人の為に費やす時間も充分持てたというだけのことだ。
 もて囃されて悪い気になる人間はいない。貴文は敢えてその誤解を解かなかった。
 結果、今まで以上に、近所の少年少女からは“憧れの頼れるお兄さん”と呼ばれるようになった。
 和美と亮平の件は、一年後に最も良い形でまとまった。しかしこれは、貴文が介入しなくても、遅かれ早かれそうなったはずで、少しばかりその時期を縮めただけのことだっただろう。
 無事に大学にも入学した貴文は、卒業後、都会の商社に勤めることになり、町を出た。本人がいなくなっても、彼への信頼は変わらず、月に十通近い手紙が届き、留守番電話は少年達からのメッセージで一杯になった。
 そんな貴文が一年経った今、突然帰って来たのは、やはりこの土地が恋しかったからだろうか。
 仕事は順調だった。周囲の人々とも解け合い、何一つ問題のない生活を送っていたはずだった。だというのに、貴文は帰って来てしまった。
 ある朝突然辞表を提出し、その日のうちに田舎に帰る為に必要なあらゆる手続きを全て済ませた。
 何の前触れもなく帰って来た息子の姿を見るなり、言葉もなく目を見開いたままの両親に、貴文は笑いながら頭を掻いた。
「俺、こっちで仕事探すから」


 そうは言っても、そう簡単に仕事が見つかるはずもなく、貴文は一日中、町を徘徊して過ごす。
 一番の痛手は何と言っても、あの公園が失われたことだ。
 あれがまだ残っていれば、こんなに行き場に困ることもなかったんだ。新しく出来たばかりのカフェのカウンターに座り、貴文は外の風景を眺めて溜め息をつく。
 公園があった場所に作られたビルの一階にテナントとして入っているこの店。窓からの景色は、以前ベンチに座って見たものと大差ない。
 何より貴文を驚かせたのは、あの公園が、実は正規の公園ではなかったことだ。
 昨年、ここら一帯の地主であった老人の葬儀の後、遺産を受け継いだ息子が真っ先に手をつけたのがこの場所で、それまではここが老人の土地だったことを知らなかった、町の半数近くの人間に衝撃を与えた。
 老人は自らの莫大な財産で、あの土地を公園のように設え、本物の公園さながらに一般に開放していたのだ。
 そこまでするんだったら、死ぬ前に公園として、くれてやればよかったんだ。貴文は、顔も知らない老人に対して舌打ちした。
 噂では、毎日のように散歩していたというから、もしかしたら貴文も一度や二度、顔を合わせていたかもしれないが、あの場に集う老人の数はあまりに多く、見当もつかない。
 溜め息の後、手持ち無沙汰の貴文は上着から煙草を取り出しライターを探した。
 が、どうやら家に置き忘れて来たらしい。どれほど探っても、それらしき物は出て来ない。
「どうぞ、貴兄」
 カウンターの青年の差し出した、店名の入ったマッチを受け取ってから初めて、貴文は名を呼ばれたことに気づき顔を上げる。
「全然気づいてくれないんだもんな、貴兄。俺、ここでバイトしてるんだ」
「なんだ、彰彦か」
 これもやはり、貴文が面倒を見て来た少年の一人だった。
「おまえも働くような歳になったのか……」
「そりゃあ、俺も、十九だよ。小遣い沢山ほしいし」
 この店のオーナーが誰かは知らないが、よくもこの長髪の男を雇う気になったものだと貴文は感心する。飲食店で、肩にかかるほどの髪を掻き上げながら仕事ができるというのは、なんだか不思議だ。
 改めて店内を見回すと、彰彦だけでなく、男女関わらず殆どの従業員が髪をまとめることなく行き来している。
 もし、髪の毛がコーヒーの中に入って、うるさい客に文句をつけられても、誰も言い訳できないな。貴文はそんなことを考えながらカップを啜った。
 こんな小さな町の中では、貴文を知らない人間がいる場所など一つもない。