星 の 棲 む 川

    2.

 彰彦だけに限らず、貴文の帰郷の噂は瞬く間に広まったらしく、最早知らぬ者は一人もいない。まだ三日目だというのに。
「貴兄のお帰りパーティやろうって話もあるんだけど」
 カウンター越しに話しかけて来る彰彦の目は、昔と全く変わらず、貴文への尊敬の念に強く輝いている。
 やや離れたテーブルでは、高校生らしい二人組がこちらへ視線を送って忍び笑いを漏らしていた。彰彦は若い娘が気に入るような風体なのだろう。
 ガキの頃は小便垂らして苛められてたってのに。泣きながら立ち尽くす彰彦を家まで連れて帰ってやった時のことを思い出し、貴文は再び彰彦を一瞥する。
 それがいつの間にか、こんなにでかくなって。
 子供の成長を見守る家族は、時折こんな気持ちになるのかもしれない。貴文は一年振りの故郷でそれを実感した。一年のブランクがあったからこそ、そう思ってしまうのだろう。
 貴文が出て行く前の彰彦は、素朴な少年といった印象を与えていた。友人達からは、「そんなんじゃ女にもてないぞ」とからかわれていたくらいだ。服装一つ構うことを知らなかった少年が、一年後には、流行の最先端を歩くのが当たり前、といったしたり顔でいる。ほんの少し離れていただけなのに、街並みは変わり、子供も変わる。
「貴兄、これからはずっとこの町にいるんだろ?」
 先のことなど全くと言っていいほど考えていない。
 だから曖昧に頷くに留めた。
 しばらくはこの穏やかな町の中で、何も考えずにのんびりと過ごしたい。そう望んでいる。
「よし! やっと会えたから、これ俺の奢り」
 頼みもしないのに、クッキーの盛り合わせが目の前に出された。メニュー表で確認すると、通常は二、三枚のはずの物が、何故か貴文の皿には山のように積み重ねられている。
「伝票には書いてないから安心してよ。折角だから、さ」
 俺は甘い物は苦手なんだが。そう言いたかったが、無邪気に懐いて来る子供を拒めなかった昔と同様、貴文は愛想笑いで一枚を口に頬張った。
 案の定、砂糖だらけの見た目を裏切ることなく、それはひどく甘かった。


 結局、貴文は彰彦の交代時間が来るまでその席を立てず、日が落ちた頃に漸く解放された。
 苦手と言いつつも、その長丁場を持て余し、一枚二枚と手を出すことになり、最終的には皿の中身は空になった。当然、それを飲み下すために、飲物もその分追加しなければならなかったのだが。
 外に出た貴文は、彰彦が後から追いかけて来るのではないかと不安を感じ、足早にそこを離れた。彼の存在はけして迷惑なわけではなかったが、一日中その相手をするには、現在の貴文には精神的な余裕が足りなさすぎた。
 もう少し。あともう少しだけ、自分が落ち着いたら。その時にはいくらでも話を聞いてやるから。
 けして後ろを振り返らなかったのだが、貴文は見えざる彰彦にそう詫びた。
 今だけは勘弁してくれ。


 何もかも放り投げて帰って来たはずの貴文だったが、残念ながらたった一つだけ、都会の生活に繋がる物は、まだ手元に残っていた。
 携帯電話だ。
 番号を知っている人間はどれくらいいただろう。
 会社の同僚、上司。戯れに入ったバーで意気投合した連中。ざっと数えても、一年の間に増えた知己は五十人を下らない。
 だがそんな人々も、もう貴文に電話をかけて来ることはないだろう。逃げるように帰って来た時に、彼等との縁は全て切れていたので。
 そう貴文は思い込んでいた。
 確かにこの三日間、一度もかかって来なかった。何の音も鳴らない、掌の収まるサイズのそれは、貴文の部屋の机の上に放り出されたままになっている。ここでは、持ち歩く必要が全くなかったからだ。
 この番号を、地元の人間は誰一人として知らない。かかって来るはずなどないのだから、家に置き去りでも、ポケットの中でも、大した差はなかった。
 その期待を裏切ったのは、帰宅した貴文を迎えた母の一言だった。
「あんたの部屋から音楽が聞こえたけど、ラジオでも入れたままだったの?」
 そんなことはしていない。外出する時には、全ての電源を切る習慣が貴文にはあるのだから。
 まさか、という思いを抱いて二階へ駆け上がる。
 と、妹と目が合った。
「兄貴、携帯鳴ってたよ。外行く時はちゃんと持って行ってよ」
 愕然と、貴文は自分の部屋に入った。
 この目で見るまでは、まだ納得ができない。
 乱暴に掴み、開いた画面上には、一つの名前だけが表示され、その事実が更に貴文を疲れさせた。
 登録されたメモリは、全て消すべきだったかもしれない。ぼんやりと、そんなことを考え始めていた。だが、仮に番号だけが表示されたとしても、貴文にはそれが誰を示す数字の組み合わせなのか、すぐに解っただろう。
 つい数日前、貴文の方から一方的に別れを告げた女からだった。


 貴文は令子に、自分の実家について語ったことがない。
 この小さな町の名、卒業した学校名、両親と妹がいる家庭。何一つだ。
 だから令子には、貴文の行く先を知る術はなかった。唯一、貴文と連絡を取れる手段が、未だに残されたままだったというのは、彼女にとっては幸運だった。それが貴文にとって不運だったのと対称に。
 この事実に直面した時、貴文が起こした行動は、ひどく消極的なものだった。
 そのまますぐに、電源を切ったのだ。
 そうして携帯電話は、机の引き出しの奥に放り込まれた。
 貴文は、令子にかけ直すことなど選ばなかったし、再び令子から電話がかかって来ることも良しはしなかった。
 しかし、この電話を解約する、ということまでは、何故かしようとはしなかった。