星 の 棲 む 川

    3.

 その晩、貴文は夕食を摂らなかった。
 本人は、日中甘い菓子を食べ過ぎたせいだと思っていた。
 真実はわからない。
 本当に菓子のせいかもしれず、或いは令子の名を見たせいかもしれなかった。


 その後貴文が取った行動は、やや珍妙だったと言っていい。
 都会から持ち帰った電話は机の中に放り込んだままにし、何故かそれとは別に新しい携帯電話を契約した。二台目の電話番号は、この町に住む親しい人々の間に一気に広まり、連日のように鳴り続けることになる。


 新しい充電器と説明書の入った紙袋を隣の椅子に置き、貴文はメニュー表を一瞥した後、「ブレンド」と告げた。
 何の習慣か、ついつい足はこちらの方へ向いてしまう。しかし、目的地に着いてみれば、居心地の良いベンチなどはなく、目につくのはこの店だけだ。
 それにしても、と貴文はカウンター内を眺める。
「貴兄、携帯買ったの? 番号教えてよ。それと、メアドも」
 なぜ平日の午前中だというのに、彰彦がいるのだろう。
「俺、水曜と金曜は、朝からシフト入れてんの」
 ちゃんと学校へ行っているのか、聞きたい気にもなったが、自分は保護者ではないのだ。そこまで心配する必要はない。
 思わず開きかけた口を吐息だけに留め、貴文はまたぼんやりと外へ視線を移す。
 見える景色は殆ど同じだ。ガラス越し、という点を除けば。
 園内の緑は既に無かったが、通りを挟んだ反対側の街並みは、ベンチに座った時と変わらない。
「誠の奴、家出したっきり、まだ見つかってないんだ」
 この春でやっと15歳になった少年は、貴文が町を離れている間に突然消えていた。何度となく、貴文の元に潜伏しているのではないかと考える人間からの電話が来たので、状況だけは実に詳細に知っている。
 しかし半年経った今でも、彼の消息は綺麗に途絶えていた。
 貴文も心配はしていたのだが、自分一人の力で見つけ出すのは不可能に近い。成り行きを見守る以外に方法がなかった。
「亮平くんもさ、まだ和美さんと別れられないし……」
 彰彦の話に適当に相づちを打っていた貴文だったが、その二つの名前が出た時には思わず顔を上げた。
 別れられない?
 貴文の興味を引いたことに気づいたか、彰彦は身を乗り出して話し始める。
「前からうまく行ってなかったんだけど、ほら、あんなに貴兄に迷惑かけたのに、簡単に別れるわけにいかないじゃん?」
 貴文が町を離れた頃から、二人の仲は修復不可能な段階にまで発展していたらしい。しかし、貴文の顔を潰すことには抵抗があったため、未だにぎこちない関係を持続させているのだという。
「俺のせいってことか?」
「貴兄にそんなこと言う奴なんかいないよ。亮平くんがほら、うじうじしてるだけで」
 亮平はいくつになったんだっけ。貴文は膝の上で指を折って数えた。今年で、二十一になるのか?
「和美さんはOLで、亮平くんは学生だから、やっぱりまずいんだって。これ、タケちゃん情報だから間違いなし」
「剛史はなんでそんなこと知ってる?」
 既に夢中になっているらしい彰彦は、仕事も忘れて身を乗り出し、小声で囁いた。
「タケちゃんが、和美さん狙い」
「ああ、わかる」
 妙に忠実な剛史は、行動を起こす前の情報収集を怠らない。そして確実に自分に有利と決定するまで、けして手を出さない。それは子供の頃から同じだ。
 亮平と和美と剛史。久しく会っていない三つの顔を思い浮かべ、貴文は自分の立場について考える。
 多分、一番最初に自分のところにやって来るのは亮平だ。次は貴文が和美に会いに行くだろう。なんとなく成り行きは想像できる。
 だが貴文は、けしてそれらのことを面倒だとは思わなかった。
 家に一人でいて、令子のことを思い出して気に掛けるよりも建設的なことは間違いない。


 日中をまた店の中で過ごしてしまった貴文だったが、彰彦が帰った夕方になってやっと落ち着くことができた。そのために、外が薄暗くなってもまだカウンターに座ったままだった。
 外の景色は、夜になってもあまり変わらない。
 眺め続ける視線の先に、妙なものが映ったのは数分後だった。
 誰かが店の奥に向かって手を振っている。ガラスに顔の跡が付くのではないかと思うほど密着して。
 その子の身分はすぐに知れた。近くの高校のセーラー服を着ていたからだ。創立以来何十年も変わらぬその制服は、時折生徒達が運動を起こしているが、彼等が常に有名デザイナーを希望するために、何年経っても結局このデザインのままだ。
 女の子の口がゆっくりと大きく開かれる。
「……俺か?」
 どうもその口が、「た、か、に、い」と動いているように見えるのだ。
 案の定、彼女はすぐに店の中に駆け込み、真っ直ぐに貴文へと向かい、そのまま無遠慮に横に腰掛ける。
「貴兄、お帰り!」
「……ただいま」
 一応は答えたものの、この小娘に見覚えはない。化粧が濃すぎるから、誰なのかわからないのかもしれない。髪の毛も随分茶色い。おそらく以前はもっと黒かったのだろう。
 顔の造りを、そのパーツだけで見、他に利用できる材料は声だ。
 一瞬の間の後、貴文はおそるおそる尋ねる。
「……真名美か?」
「うん、マナ」
 あっさり返った答えに、貴文はまじまじと真名美を見つめた。
 こいつは、確か今年高校に入ったはずだ。去年最後に見た時は、テニスで真っ黒に日焼けして、髪も短くて、そもそもいつの間に化粧なんか覚えたんだ。
 しばし呆然とする貴文の様子に気づいていないのか、真名美はカフェオレを頼む。
「咽渇いてたんだぁ。良かったぁ、貴兄がいて」
 つまりは貴文に払えということなのだろう。
 今日も自分は子供の相手をして終わりそうだ。
 貴文は苦笑し、真名美に近況を聞き始めた。
 その話は要領を得ないため、かなりの時間を費やさねばならなかったが、貴文は辛抱強く最後まで真剣に聞いてやった。
 きっと自分の毎日は、こうやって過ぎていくのだろうと思いながら。