星 の 棲 む 川

    4.

 翌朝、昼近くにやっと起き出した貴文に、珍しく母親が説教を始めた。
 いつまで遊んでいるつもりなのか、いったい何の仕事をするつもりでいるのか、これからもずっとこの家に住むのか。
「来週までには決めておく」
 その一言だけ言い置いて、貴文は外に出る。
 陽光に思わず目を細める。気づけば、この町に戻ってから、毎日晴れている。けして雨好きではないが、夏が近い今時期は、日毎に暑さが増して行くようで、貴文は着ていた上着を手に持った。
 途端に、その上着の中で携帯が震えだした。


 前日の予想に違わず、亮平からの呼び出しが早くもかかった。
 何を言われるのか想像はついていたが、貴文は待ち合わせ先であるファミリーレストランへ急ぎ足に向かった。
 あのカフェでも良かったのだが、彰彦のいるいないに関わらず、狭い町の中だ。夕方に出勤する彰彦に、誰か同僚が告げ口するかもしれない。となると、噂はとんでもない早さで蔓延するだろう。こういったことは、いずれ知れることであっても、少しでも遅く伝わってほしい。
 そして何より、先程の一悶着のために、貴文はまだ朝食すら口に入れていない。そういった理由から指定した店だった。
 中に入るなり、やはり知った顔が笑顔で「お煙草はお吸いになれらます?」と案内する。どこに行っても知り合いだらけだ。


 亮平は既に席について、メニューを睨み付けていた。
 学生には少々高めの品々の中で、何を注文したものか決めかねているようだった。
 しかし貴文の奢りということで、遠慮なくハンバーグのセットを頼む。
 その様子に、貴文は五年前にたった一度だけ亮平を連れて食事に行った時のことを思い出す。何故二人で食べに行ったのか、前後の事情はもう忘れたが、その際まだ中学生だった亮平はさんざん迷った挙げ句に「ハンバーグにする」と笑った。
 相変わらずハンバーグ好きなんだな。
 昔話をしかけた貴文だったが、寸前で思い出した。あれは、和美と同じ高校に受かったことを祝う食事だった。
 これから別れ話について相談されるというのに、そんなことを貴文が言い出してしまっては、また亮平は何も言えなくなるに違いなく、二人は不毛な関係を持続することになる。
 だがそんな貴文の気遣いは無用だったかもしれない。
 顔見知りのウェイトレスが料理を運んで来ても、食事を終えても、結局亮平は和美の話など持ち出さなかったのだから。
 当たり障りのない、この一年を振り返るだけの話が続き、そして亮平は「ごちそうさま」と頭を下げて帰って行った。


 まだ迷っているのかもしれない。貴文を呼び出すことまではできたが、そこからもう一歩踏み込むことが、土壇場で出来なかったのかもしれない。
 亮平の不安げな顔を思い浮かべ、貴文はそう結論付けた。
 だが迷わせているのが、和美ではなく、貴文の存在だという話が本当ならば、自分が気軽に「気にするな」とでも言えば済むのかもしれなかった。
 行くあての無い足は、仕方なく家へと向かっていた。
 妹も父もまだ帰らない。また母と二人きりだ。
 今まで、あまり心配をかけることのない息子だった。それが急にふらふらと戻って来て、毎日近所を歩き回っているだけで何もしようとしないのだから、向こうでの生活で何かあったのかもしれないと勘繰り、最初の一日二日は黙って見守っていたのだろう。それが何日待っても変わらずでは、そろそろ歯痒くなってもおかしくはない。
 腕時計と、見え隠れする家の屋根へ交互に視線を送り、母は次に何を言い出すだろうと考えていた。
 勿論、貴文は母親への対応はある程度用意していた。
 が。
 突然現れる、忘れたはずの女を前にした時の対処法などは、当然考えているはずもなかった。


 家の前を何度となく往復し、中へ入るのを躊躇っている一人の女。
 保険の勧誘か、何かのセールスだと、貴文は思った。
 近づくにつれ、それが何処かで確かに目にした女と酷似しているようで、それが誰だったかを思い出そうとした。
 足は、家の十メートル手前で止まった。
 いるはずのない、ここを知るはずもない女。
「……令子」
 名前を呟くだけで、女はこちらに気づくのではないかと思われた。
 残念ながら彼女は、目の前の家ばかりを気にしているらしく、道の真ん中で突然立ち止まった男には全く注意を払っていない。
 今ならまだ、来た道を引き返せる。
 一気に駆け出せば、女に気づかれることなくこの場から立ち去れる。
 貴文は迷った。


 好物のハンバーグを、複雑な表情で口に運んでいた亮平。
 その姿が今、自分と重なっているようで気分が悪かった。