星 の 棲 む 川
5.
今の心境を正直に話すなら、令子のことなど、半分以上忘れ去っていたも同然だった。
どちらかといえば、思い出すことが煩わしかった。
仮にまた何処かで出会うことがあったとしても、それは十年も二十年も先のことで、何もかもが過ぎ去った良い思い出の一つとして懐かしく感じられるようになった頃のはずだ。
こんな早くに、しかもご丁寧にわざわざ探し求めてやって来られる。それは迷惑としか言い様がない。
長い髪は後ろで一つに束ねられ、地味なベージュのスーツに身を包んでいる。一見、三十も半ばを過ぎたような印象を与えるが、実際の年齢は貴文と三つと離れてはいなかった。
そもそも、どうやって彼女がこの家を探し当てたのか、貴文にはその経緯を想像することができない。
彼女に気づかれぬように、貴文は二軒手前の家の塀にそっと背を預ける。
今、貴文はただ待っていた。
令子が決断し切れずに立ち去るか、或いは数センチ手を延ばすだけで届くインターホン越しに貴文の不在を知らされるかすることによって、今日という日を諦めてくれることを。
わざと、貴文は腕時計を見なかった。見てしまえば、まだ一分と経過していないことを知り、無意味な焦燥を感じるだけだとわかっていた。
結局、令子は何もすることなく去った。
貴文は彼女の姿が完全に見えなくなったのを確認するまで隠れ続け、それは実に十五分に及んだ。
時計を見るまでもなかった。貴文はその間ずっと、「一、二、三……」と数え続けていたのだから。そしてそれは、一秒の狂いもない正確さだった。
本人は令子の姿に動揺していたつもりだというのに、真実の貴文は、自分が思っているより遙かに冷静だった。
一体いつから令子が家の前にいたのか、貴文は知らない。
入るなり、妹は貴文の腕を掴んで二階へ駆け上がり、一気に質問を開始した。
「さっきまで女の人が家見てた! 兄貴の彼女でしょ! すっごく年上じゃん! ね、彼女なんでしょ?」
貴文は身に覚えがないとしか答えなかった。
「そんなはずないけど……三十分以上はいたのに」
妹が気づく前から、令子はそこにいたはずだ。ただ何もせずに。
何が原因かはわからなかったが、偶然家には妹一人しかおらず、その妹も令子に声をかける気になれなかったために、彼女は何もせずに去ってしまった。
「何かの勧誘かもしれないから、また来ても放っておけよ」
「はあい」
非道いことを言っている。
貴文にも自覚はあった。しかし、全ては、机の奥に打ち捨てられた過去の携帯電話と同じく、終わってしまった事柄の一つでしかありえない。
妹を追い払うように部屋から出すと、貴文は新しい携帯電話で、たった三つしか登録されていないメモリーの一つを呼び出す。
相手はすぐに出た。一言二言告げ、貴文は再びジャケットを手に階下に降りた。
玄関先で、貴文は時計に目をやった。
電話をしてから十分が経っていた。たったそれだけの時間でありながら、既に貴文は六人の主婦と挨拶を済ませていた。誰もが同じだ。
「貴ちゃん、たまには遊びにおいで」
その言葉に、貴文は愛想良く頷き、「じゃあ何か手土産いるかな?」と苦笑して見せ、相手は必ず「貴ちゃんが向こうで頑張ってた話がお土産だよ」と答えた。
自分は何を頑張っただろう。仕事を? 初めての一人暮らしを? それとも、人間関係で? たった一年で逃げ帰って来てしまったというのに?
更に五分ここにいれば、きっと三人くらいはまた同じように声をかけて来るだろう。
貴文は早く離れたかった。
平常であれば、御近所の温かい微笑みくらい、当たり前のものとして受け止めている。生まれた時から周囲にあった、馴染み深いものだ。
しかし令子を見てしまってから、何か自分はおかしい。田舎の素朴な一言一言が、妙に勘に触る。
時計を見て苛立つということそれ自体が、本来ならばあってはならないことのはずだった。
自分はもうあの都会にいるのではない。この懐かしい町に戻って来た。
町内皆のお兄ちゃんと呼ばれた、あの頃の貴文になれる。一年前までの自分になり切らなければならない。
「なんだ、貴兄。中で待っててくれればいいのに」
息を切らして彰彦は立ち止まる。多分、自宅から走ってずっと走って来たのだろう。
「最近全然走ってないから、なんか体鈍っちゃってて……」
時間がかかり過ぎたことに対し、彰彦はそう言い訳した。
それを真に受けるかどうかは別として、貴文は責めることなく、彰彦の肩を抱いて歩き始めた。彰彦の身長は、貴文の体が記憶しているそれより僅かに伸びていた。
「亮平達の情報、少し教えてくれないか?」
二人の足は住宅街を抜け、夜の街へと向けられる。
長い時間を要する話だと、互いに解っていたからだ。
歩きながら、貴文は自分に言い聞かせる。
これからまた、俺は『皆のお兄ちゃん』になる。そうならなければ、ここで生活することはできない。
手始めは、亮平と和美だ。
それを解決しさえすれば、また自分は当時の自分になれるだろう。あの頃のように、皆の面倒を見るのが当然、と思えるようになるだろう。
自分の人生の中から、この一年を、無かったものとして、徐々に忘れ去ることもできるだろう。
そうした日常が続き、いずれは、令子の名前さえも思い出せなくなる日が、きっと訪れる。