星 の 棲 む 川

    6.

 彰彦が案内した先は、貴文が小学生の頃に出来た焼鳥屋だった。
 オープン以来一度も手を入れていない建物は、中も外も煤まみれで、相変わらず入り口の横に炭を乱雑に重ね、壁に掛けられた木の札には十年以上前から同じメニューと値段が書かれている。妙に達筆なそれは、店長が語るところでは、若い頃は書道教室を開いていて、その腕自慢をするための力作なのだそうだが、客の大半はその昔話に興味を持たなかったため、彼の詳しい経歴はあまり広まっていない。大衆的な店の主の前歴が、やや風雅な技能職だというのは、経営の上でマイナスな要素だと貴文は感じている。
 彰彦の近頃のお気に入りだという以上、嫌とは言えなかったが、貴文はこの店があまり好きではなかった。
 まだ小学生だった時だ。両親に連れられて来たこの店で、何に気を良くしたのか、店長は「焼くところ見せてやろうか」と貴文を特別にカウンターの中に入れてくれたのだ。
 危ないから手は入れちゃだめだ、と念を押されて見たそれ。
 不気味だった。
 組まれたレンガ。均等に横に空けられた穴。そこから覗く炎。
 ちょうどその数日前に、祖母の葬儀で訪れた火葬場。回廊の両側に並ぶ横一列の扉。父は貴文と妹に、「あそこにお祖母ちゃんも入るんだ」と、「あの中はもの凄く熱い火が出るんだ」と余計なことを教えた。
 焼鳥屋のカウンターの中で、貴文は火葬場を連想した。怖くて涙が出そうだった。
 今ではもう、そんな恐怖は年月とともにどこかへ忘れ去って来てしまったが、それでも舞い上がる火の粉には子供の頃の体験が背筋を駆け抜ける。
 彰彦の手前、何食わぬ顔で過ごすしかない。貴文はジョッキのビールを一気に飲み干した。
「それで、剛史からはどんな話を聞いてるんだ? 今じゃ、あいつがこの件に一番詳しいんだろ?」
 おしぼりを弄びながら一気に大量の注文を済ませた彰彦は、冷酒のグラス片手に語り出す。
「そ。タケちゃんやる気になったらすごいから。和美さんのことも亮平くんより詳しそうだし、和美さんのことも亮平くんよりよく知ってんじゃない?」
 もっとも今の二人の状態では、お互いの近況すらまともに話し合っていないのだろうから、第三者の方が精通していてもおかしなことはないのだろうが。
「なんか亮平くん、バイト先の女子高生と仲良いらしくってさ。和美さんは和美さんで子供みたいな亮平くんとは合わないんじゃないかって思ってるらしいし。あれじゃもう保たないね」
「それがどうして未だに保ってるんだ? やっぱり俺のこと気にしてるのか?」
「それだけだったら、ハンバーグ奢ってもらった時に貴兄に謝れば終わってた話じゃん? 問題は亮平くん本人にあると思うな、俺」
 その言葉に、貴文はやや眉を寄せた。あの愛想の良いウェイトレスは、確か彰彦とは家が隣同士だったな。仕事を終えて、帰るなり彰彦に全て報告してしまったのだろう。しっかりと聞き耳を立てていたらしい。
 悪びれた様子もなく、彰彦は冷酒を啜る。
 当然だ。この町の中にいて、秘め事ができるはずがない。一人が知れば、それは町中が知る。これは昔から全く変わっていない。
「結局さ、亮平くんは自分で周りを変えるのが嫌なんだよね、きっと。ガキの頃からそうじゃん。和美さんが好き、でも自分からは言いたくない。女子高生にラブレター貰って困った、でも自分から断りたくない。煮え切らない奴だよな、俺も心配になっちゃうよ、あの人本当に俺より年上なのかな、って」
「それ聞いたら、亮平落ち込むぞ。一年生になった時、緊張して学校で小便垂らして、べそべそしてたおまえを背負って帰って来てくれた上級生は誰だったっけ?」
「それは亮平くんだけどさ……」
 煩わしい長髪を掻き上げ、彰彦は視線を泳がせ、落ち着かない様子で更に酒を呷る。グラスの中身はもう殆ど残っていない。
 確かに、亮平のその傾向には貴文も不安を感じていた。万事に臆病な性質の亮平。やはり、自分が出るしかないのか。だがそれでは、いつまで経っても亮平は乳離れできない子供のままだ。もう二十を越えた男が、貴文無しでは何もできないようでは困る。
 山のように、焼き鳥が次々と目の前に積み上げられる。ビールばかりを口に運んでいた貴文は、軽く頭を振って手を伸ばす。
 この店にトラウマがあるせいだ。だからこんなに酒が効くんだ。貴文はなんとか焼き鳥を口にしようとしたが、食欲は湧かない。
 剛史から聞いた話を一つも漏らさずに告げようとする彰彦の声も、次第に貴文の耳には不明瞭になっていく。
 白い煙の奥に、ぼんやりと一人の女の顔が浮かぶ。瞬きを繰り返しても、女の表情は変わらない。どうせ思い出すのなら、微笑みを思い浮かべればいいのに。なぜ、この女はこんな目を向けるのか。こんな目をしていた時のことしか、どうして思い出せないのだろう。
 彰彦が、何度か背を叩いた気がする。何かを言っている。だがはっきりと聞き取れない。
 煙のせいだけではない靄がかかる。
 それでも女の顔だけはまだ消えない。


 令子が嫌いだったわけではない。
 仕事もできるし、頭も良い。会話も弾んだ。
「貴文、私に甘えたい?」
 からかうような口調と、鋭い視線。すぐに気に入った。年上の女だということを、意図的に貴文に知らしめようとしていた。
 半年一緒にいた。貴文が自分のアパートに帰るのは、週に一回程度だった。殆ど毎日、令子のマンションに通った。寝る時も、朝起きた時も、横には令子がいた。
 貴文はその生活で十分満足だった。令子もそうだと思っていた。
 それが貴文の思い込みに過ぎなかったと気づいたのは、いつだったか。一ヶ月前。あの、同僚の結婚式の日だ。
 披露宴の料理が、意外に旨かった。初めて食べる変わった肉料理を、令子にも勧めようと横を見た。
 令子は花嫁を見つめていた。
 見合いの席で一目惚れしたという花嫁は、まだ二十二歳。短大を出てからは家事手伝い。同僚は大男だったため、必要以上に小さく見える可愛らしい女性。熊のような男には勿体ないと皆が冷やかす声さえ、令子の耳には届いていないようだった。
 貴文は知らなかった。
 令子が、本当は結婚したがっていたことを。
 たとえ貴文が、まだ社会に出たばかりの、まだ学生気分の抜けない若造だったとしても、それで令子の気持ちを止められるはずがなかった。彼女は二ヶ月後には、二十八歳になるのだから。


 月曜の朝、令子と二人で連れ立って、いつも通りに出勤した。目出度いことがあったすぐ後のためか、誰かが二人の背中にこう叫んだ。
「よっ、おまえらも早く籍入れちまえよ。ご祝儀たっぷりだぞ」
 いつもなら、貴文は照れ笑いで誤魔化すのだが、この時は披露宴で見た令子の目が蘇り、何も言えなくなった。
 三日。三日間、貴文の頭の中にはあの日の令子の顔がこびり付いていた。気づけば、係長の前に立ち、「最近弛んでるぞ」と書類で頭を叩かれている自分がいた。
 ネクタイが苦しかった。背広が重かった。
 自分は今幾つだ?
 あと何年、自由でいられる?
 頭に浮かんだのは、故郷の町。あの公園。ただぼんやりと空を見て過ごしたベンチ。
 自分でも、何が嫌になったのかよくわかっていない。
 ただ、久しぶりに帰ったアパートで、留守番電話のメッセージの中に、家出している誠を本当に知らないのか、と緊迫した調子で迫る誠の母親の声を聞いた時、自然と荷物をまとめ始めてしまったのだ。
 部屋は簡単に片づいた。余分な家具は隣人やリサイクルショップへ。ボストンバッグ一つを抱え、切符を買った後、辞表を持って会社へ行き頭を下げた。
 同僚は皆目を丸くしていた。咄嗟にどう反応していいかわからぬ様子で。令子はどんな顔をしていただろう。思い出せない。
 そう、その場に令子はいなかった。社用でどこかに出ていた。多分、一時間程度の外出だったはずで、貴文はその予定を最初から知った上で、敢えて令子のいない隙を狙ったのだ。
 その足で令子の部屋へ向かった。自分の痕跡を残さぬための後始末をするために。歯ブラシや着替えも全て。部屋の中を見回した時、そういえば二人で写真を撮ったことがなかったと気づいた。もっとも近頃では携帯電話にもカメラが付いている時代だ。いつでも撮れるという気軽さと、いつも一緒にいるという現実が、写真を必要としなかった。
 テーブルに合い鍵だけを乗せ、そして貴文は駅へと向かった。
 故郷の町に着いたのは、それから六時間後だった。