星 の 棲 む 川

    7.

 貴文が目を覚ました時、隣にはまだ彰彦がいた。
 焼鳥屋のカウンターに突っ伏してしまった貴文の肩を叩きながら、たまたま隣り合った会社員らしき男と意気投合しているところだった。
 真っ赤な顔で陽気に笑う彰彦。小さな頃から、何度も同じ粗相をしてしまうため、“お漏らしアキ坊”とからかわれたあの少年が、酒を飲んで酔う歳になった。あの頃の面影は、もう微かにしか残されていない。
 もう一度、貴文はかぶりを振った。
 まだ、令子の顔がまとわりついて離れない。
 耳まで赤い彰彦を無理矢理立たせ、連れ立って外へ出た。
 気づかぬ間に、夜の闇が空を覆い尽くしていた。まだ夕刻だとばかり思っていた貴文は初めて時計に目をやり、既に八時を回っていたことに気づく。眠っていたのはほんの数分だと思っていたが、実は二時間近く経っていたらしい。
 ではその間、ずっと彰彦は横で待っていてくれたのだ。
 こんな子供に気を遣わせてしまった。今からでも遅くはない。埋め合わせをすべきだろう。とりあえずこの焼鳥屋の払いは貴文の懐から出したが、それだけで済ませるわけにはいかない。こいつはまだ、十九歳。貴文より、六つも年下の、まだまだ子供だ。
「彰彦、悪かったな。飲み直すか?」
「んー貴兄の奢りなら、ずーっと付いてくー」
 やや呂律の回らなくなった口で、彰彦は笑いながら答えた。
 笑い顔は無邪気なんだが。足下も覚束無い彰彦の体を支えている貴文には、その重みが不思議だった。遊んでやってた頃に、何度も背負ってやったことがある。肩車だってしてやった。今ではもう無理だろうが。
 小さな町の、小さな繁華街。軒を連ねる店も、一年前とそう大差ない。貴文の知らない店は、数えられる程度しか増えていない。
 どこへ行ったものかと周囲を見渡した時、夜の街に相応しくないセーラー服が目についた。


 貴文も、そして彰彦も通った高校は、制服も校則も昔から何一つ変わっていない。もちろん、いかがわしい場所への出入りも禁じている。
 そんな規則を守る生徒がいるかどうかわからないが、この一帯を歩く時には、一応皆、私服に着替えて来る。補導対策ではない。流行遅れの制服が恥ずかしいのと、夜遊びの勢いで制服を汚さぬ用心で、これは貴文の時代から全く同じだ。
「貴兄?」
 貴文の視線の先を追った彰彦も、そこに見慣れた顔を見つけたようだった。
「ああ、マナじゃん」
「あいつ、高校生のくせに、いつもこんなとこ彷徨いてるのか?」
 しゃっくりを間に挟みつつ、彰彦は首を縦に振った。
「バイトだよ、バイト。知らないおっさんについて行くと、時給で五千円だってさ」
「……それは犯罪だ」
「貴兄、若いくせに堅いなあ。自分だって、向こうにいる時、女の一人や二人いたんだろ?」
 まだしゃっくりが止まらない彰彦に肩を貸したまま、貴文は真名美の方へ近づいて行く。
「真名美はまだ高校生だ。俺と同じに考えるわけにはいかないだろう」
「ほんっとっ、貴兄は、俺たちみんなの兄ちゃんだよなあ」
 真名美は、確かに彰彦の言う通りの行動を取っている最中だった。四十はとうに過ぎた男と腕を組んで歩いている。
 願わくば、まだ金を受け取っていませんように。金銭の取引が成立する前に、なんとか適当なことを言って真名美を連れ出したい。
「いいじゃん、あいつの好きなようにさせとけば。大丈夫、エッチはさせてないって話だし」
「真名美にそんな破廉恥な真似をされてたまるか!」
「貴兄、兄バカな実の兄みたいだよ」
 そう、それでいい。
 自分がなりたいのはそれだ。大勢の妹や弟を何より可愛がる、いいお兄ちゃん。そんな貴文を、今の貴文は理想としているのだから。
 はたと気づいた。
 今、自分は、本当に心から真名美を助けたいと思っているのか。それとも。
 迷っている間に、二人は真名美のすぐ後ろまでたどり着いてしまった。
「真名美」
 別段、驚いた様子もなく、ごく自然に真名美は振り返った。
「明日も学校があるだろう? 早く帰って寝ないと、おまえ朝弱いんだから」
 何を言えばいいか咄嗟にわからなくなり、貴文の鼓動は一気に早まった。こんな場面に出くわしたことが、今までの人生で何度あっただろう。妹分を窮地から救う、というシチュエーションには慣れているが、売春まがいの行動を取る妹分を諫める、というのは初めてだった。
「貴兄とアキちゃんだってまだ遊んでるのに?」
「俺は仕事もしてないし、彰彦も明日は休みだ」
 これは嘘ではない。先ほど焼鳥屋に入る前に、彰彦が宣言したのだ。明日は休みだからとことんまで飲むぞ、と。
「わかった。でも、ショーキチさんとケーキ食べる約束しちゃったよ。マナどうすればいい?」
 “ショーキチさん”って誰だ、本当にケーキを食べるだけなのか、ぶつけたい質問はいくつかあったが、ある程度想像できる範囲内に収まっている事柄のため、貴文はそれらを省いた。
「それは……」
「んじゃあ、ショーキチさん、これどうぞ!」
 言い淀んだ貴文の横から、しゃっくりの収まった彰彦がポケットから何枚かの紙を取り出した。
「うちの店のケーキセットのタダ券。これがスコーンセットの割引券。それとランチセットの半額券と、コーヒーチケット十枚綴り。どうぞ」
 状況からか、落ち着かない様子だった“ショーキチさん”は、押し黙ったまま彰彦の手元を眺めている。
「うち、女の子の客多いっすよー。一人で来てる女子高生とか、一人でぼーっとしてる女子大生とか、陰のある色っぽい人妻とかも。これでうちに通って、ナンパし放題。さ、どうぞどうぞ」
 無理矢理チケットを握らせ、真名美をさりげなく貴文の陰へと押しやり、彰彦は“ショーキチさん”に手を振った。
「じゃ、おやすみなさーい。ほら、貴兄、マナ、帰ろう」
 先ほどまでの千鳥足はどこへ行ったのか、彰彦は二人の手を引いて、人混みにうまく紛れ込んだ。