星 の 棲 む 川

    8.

 この場は、彰彦に全て救われた。
「真名美、危ない目にあったらどうするんだ?」
 ケーキを食べると言い張る真名美に、仕方なく三人で近くの店へ向かいながら、貴文は漸くそれだけ口にした。
「だってマナ、たくさんお金欲しい」
 ため息をなんとか堪え、貴文は何と言ったものかと考える。
「マナ、お金稼いで、それで男の人を養えるぐらいになって、男の人に頼られるようになりたいもん」
「なんだそれは」
「そういう格好いい女の人になりたいもん」
 絶対に譲らない真名美に、貴文は正直困惑していた。
「そういうのは大人になってからで十分だよ」
 彰彦はもう数メートル先にいて、甘い香りのする店の前で二人を待っている。


 結局、真名美に付き合わされ、食べたくもないケーキを食べた後に家まで送り、再び二人で飲み直すことになった。
「あ、せっかくだから、もう一人くらい呼ぼうよ」
 誰かに電話をかけた彰彦がバーに呼び寄せたのは、剛史だった。
「おまえ、最近は和美に詳しいらしいな」
 貴文の突然の言葉に、剛史は照れ隠しか、鼻の下軽く擦った。
「和美ちゃん、最近結構いい女になっちまってさ。絶対に亮平のおかげじゃないけど。貴兄、見た?」
 そういえば、一年以上、和美には会っていない。
「なあ、アキ。おまえどう思う? 和美ちゃん、俺に気があるよな?」
 亮平と和美の仲がどうにもならなくなっているのは十分わかった。しかし、和美が剛史をどう思っているかまでは、さすがに貴文にもわからない。本人の話をまだ聞いていないのだから。
「俺さ、場合によっちゃあ、亮平ぶん殴ってもいいんだぜ。和美は俺がもらった、なんて言ったりしてさ」
 血の気の多いところは、幾つになっても変わらないらしい。しかも腕に覚えがあるのが尚悪い。ケンカで負けたのは、生涯に二度だけだというのが剛史の自慢だ。
「タケちゃん、暴力はだめだって。折角入れてくれた会社クビになっちゃうよ」
「そんなことくらいでクビになるかよ。貴兄、俺、やっちまってもいい?」
 剛史が最初に負けたケンカは、四歳の時だ。近所の女の子のスカートを捲ったことが原因で父親に殴られたのだ。反抗して立ち向かって行ったが、更に三発殴られた。
 最後の一回は貴文が相手だった。十歳の剛史が、中学生だった貴文に勝てるはずがない。もっとも、体の大きさも殆ど変わらなくなった今、もう一度勝負したとしても、貴文に勝ち目はないだろうが。確か、あの時は、同級生の女の子が剛史に教科書を破られたと泣きついて来て、それが発端だった気がする。
 そこまで思い出した時、貴文は思わず声をあげかけた。
 四歳の時にスカートを捲った時も、十歳の時に教科書を破いた時も、相手は同じ女の子だった。あれは和美だ。
 典型的な好きな子いじめだったのか。貴文は目の前の剛史の顔をつくづく眺めた。
 慎重な情報収集の割に、最後の手段は何故かいつも力づく、という不器用なこの男は、結局、子供の頃好きだった女の子に行き着いたというわけか。
 そんな微笑ましい話に、貴文はなんとかこの剛史の恋を実らせてやりたいと心から望んだ。だが、その前に片づけなければ問題は幾つかあり、それはおそらく、貴文の手によって解決されるのが妥当なのだろう。なぜならば、貴文は“みんなのお兄ちゃん”だから。


 午前二時に、貴文は既に消灯された家に入った。玄関の鍵は不用心にも開けられたままだ。暗闇を手探りで二階へと向かい、足音すら忍ばせる自分の姿に、学生時代以来、こんなことは久しぶりだと気づく。
 就職してからの都会での独り暮らしでは、殆ど毎夜日付が変わってからの帰宅だった。最初の半年はそう過ごし、後の半年は、大抵令子の生活時間に合わせていた。それでも週に何度も遅く帰って令子を困らせた。時には酔って違う女の名を口走ってしまったこともあった。
 忘れよう。
 あの頃のことは全て、忘れたい。
 そう思っていたはずが、気づけば都会の暮らしと令子のことばかり考えている。
 懐かしいはずのこの町が、野暮ったく見えるせいかもしれない。古くて汚い店。時代遅れの店。流行りの物一つ置いていない店。もう何十年も前から健在のそれらが、懐かしくもあり、またひどく不格好で情けなかった。
 比べてはいけない。
 ここは、貴文の育った町。貴文を暖かく迎え入れる、何も変わらない町。
 ベッドに身を投げ出し、貴文はわざと壁の方へ体を向ける。
 反対側には、真正面に机がある。あの引き出しの奥には、電源を切ったままの古い携帯電話が入れられたままだ。あれから何度、令子は電話を掛けようとしただろう。
 忘れよう。
 全て、忘れなければ。
 それにしても、令子はどうやってこの家を知ったのだろう。もちろん、その気になって調べれば、調べられないものではないが。会社の人事に頼み込んだか、個人的に調査を専門機関に委ねたか。
 いずれにしろ、楽な道のりではなかったはずだ。
 そして令子はそれをやってのけた。
 しかし、何の為に。
 貴文を連れ戻すことなど、不可能だ。もう会社は辞めてしまった。アパートも引き払った。
 それとも、そんなに早く誰かと結婚したいのか。誰でもいい、貴文でもいい、そんな気持ちでいるのか。
 どちらにしても、迷惑だ。
 もう令子は過去の中にしかいない。
 貴文にとって、令子は、今現在の時間軸の中に存在しない女だ。