星 の 棲 む 川

    9.

 相変わらず行き場の無い貴文は、この日も彰彦のカフェで暇を持て余していた。
 仕事を探すと言っても、この小さな町では、限られた職しかない。同級生達の半数以上も、今はこの町にいない。残っているのは、役所や郵便局、信金に勤めることを選んだ人間か、家業を継ぐ者ばかりだ。
 試しに仲の良かった友人何人かに連絡をつけたが、誰もがこれ見よがしに忙しい素振りをし、相手にしようとしない。町に残った連中から見れば、貴文は故郷を捨てた裏切者であり、更にそれらの落伍者と見なされても不思議はなかった。
 銭湯の息子は流れる汗で変色したシャツで、邪険に貴文を扱った。
「肝心な時には帰って来ねえくせに、どうでもいい時に帰って来るようじゃ、ダチも離れてくぜ。風呂に入りたいならいつでも来いよ、客だったら差別しねえから」
 半年前の同窓会を無断欠席したことを根に持っているらしかった。あの日、本当は戻って来るつもりだった。それがどうしたわけかしたたかに酔って、気づいた時には令子のマンションにいたのだ。
 それとも、三ヶ月前の同級生の駆け落ち騒動にも駆けつけなかったことを言っているのか。
 あれは知らなかったのだ。アパートには十日も帰っていなかったので。久しぶりに部屋に帰り、留守電を聞いたのは、それが心中未遂にまで発展してから一週間近くが過ぎた午後だった。そのまま慌てて特急に飛び乗った。病院に着いた時、何日も連絡の付かない状態だった貴文を、友人達は無言で責めた。大多数は貴文の作り話の言い訳を受け入れ、許してくれた。だが、何人かは、敏感にその嘘に気づいたのかもしれない。
 その二人とは、貴文の親友と、貴文とは幼馴染みの女性だった。子供達だけに限らず、貴文は同級生の橋渡しを務めることも少なくなかった。この二人からは、貴文が就職し町を離れる直前まで相談を受けていたのだが、仕事や生活にかまけて、ついついお座なりになってしまい、思い余った結果がこれだった。
 命に別状の無かった二人は、今も町にいる。その後無事に式を挙げたためだ。貴文も勿論出席した。結果論で言えば、雨降って地固まったということになるが、すっきりしない友人達もいるのだ。
 妙なことだが、最も重要な時期に関わらなかったというのに、世間ではこの二人の縁談も貴文の手柄と囁かれている。当人達まで、事の起こりは貴文の手を借りたのだから間違いではないと、その噂に拍車をかけてくれている。
 お陰でますます貴文の評判は上昇してしまい、一部の友人達を除けば、誰もが賞賛を惜しまない。
「貴兄も、本当に暇だよね」
 なぜか今日もカウンターには彰彦の姿がある。
 曖昧に頷くだけしかできない。
「仕事とか、そろそろ考え始めた? 無さそうに見えるけど、結構あるんだよ。おっきな会社の事業所とかもちゃんとあるし。……あ、いい女発見」
 人と話しながらどこを見ているのか、彰彦は店の外を歩く女性に目をつけた。
「三十くらいかな、でも俺、守備範囲だよ」
 つられて外を見遣った貴文は、息を飲んだ。
 あれから二日だ。
 もう帰ったとばかり思っていた。
「令子……」
 貴文の呟きは、彰彦には届かなかった。


 ゆっくりと、貴文は席を立った。不自然な行動は取りたくなかった。
 窓の向こうにはまだ令子がいる。
 この付近を周回しているらしく、何度もその姿が見え隠れする。
 令子の死角に入った隙を見計らって、貴文は外へ出た。
 出来うることなら、彰彦にも気づかれたくはない。なんとか彼女を振り切らなければ。
 逃げ隠れするのは、やましいところがあるからだ。その程度の自覚は貴文にもある。何も告げず、勝手に姿を暗ましたのも、面と向かって別れを切り出すことができなかったからだ。何故できなかったのか。正直に言えなかったからだ。令子と、そんな間柄になるつもりがないことを。
 何をしているのか、彼女はこの一帯から離れない。時折ビルを見上げ、また歩き出す。そしてまた戻って来る。その繰り返しだ。
 どうすべきか、貴文は迷った。
 家に帰るのも危険だ。前回はただ門の前に立っていただけだが、中に入ろうと決断されでもしたら、居留守を使うことができない。きっと母や妹は招き入れ、そして貴文を部屋から引きずり出すだろう。
 カフェから十分遠ざかった頃、貴文は剛史から教えて貰った番号をコールする。


 芸がないと思っても、他に手頃な店がない。またファミリーレストランに貴文はいた。
 ただし、向かい側にいるのは、亮平ではなく和美だ。
 昼食に呼び出した和美は、会社の制服姿のままだ。ランチのコースを注文し終え、貴文はやっと落ち着いて和美の顔を見ることができた。
 確かに、一年ぶりの和美は少し変わった。何と表現すればいいのか、そう、前よりも少し大人になった、としか言い様のない変化だ。以前より化粧の仕方が上手くなっている。髪型も今の方が似合っている。
 貴文がまじまじと眺めている間、和美は全く動じることなくそこにいた。そして突如切り出した。
「貴兄は、今度も亮平の味方? それともあたしの味方?」
 どちらかに付くことにより違う方向の結論が出る、というのは貴文の予想外だ。二人はお互いに別れたがっているのではなかったのか。
「二人両方に、一番いい形になってほしいって思ってるよ」
「両方は無理よ。だって、亮平は今のままがいいんだから」
「そうなのか?」
 聞き返してから気づいた。
 亮平は変革を望まない人間だ。自分から働きかけることも嫌うが、物事が大きく変わること全般も疎むのだ。
 だとすれば、別れるべきだと考えている和美に反し、亮平はそれでも別れることを渋り続けているのだろう。
「和美は、亮平が嫌いになったか?」
「好きじゃなくなったけど、この間までは嫌いじゃなかった。でも、あんまり物分かりが悪すぎるから……」
 言い淀んだ後の言葉を、貴文も敢えて要求はしなかった。
 気まずくなり、店内を見回した時、またしても見覚えのある従業員と目が合った。
 こいつ、また今日も、家に帰ったら隣の彰彦に全部告げ口する気だな。
 わかっていても、止める手だてはない。
「それにね、貴兄。あたし今、亮平の時よりもずっとずっと好きになった人がいる」
 その後に来る名前も、貴文には想像がついていた。
「そうか。だったら、そいつに任せるか? 亮平を一発殴って、和美を亮平から奪ってくれるかもしれないぞ?」
「貴兄って、本当に何でも知ってるのね。わかった、貴兄が関わってくれてるなら、安心だもの。貴兄に全部お願いする」
 そんな無条件に信用するな。本当はそう言いたかった。実際問題、一発殴られた程度で亮平が引き下がるわけがないのだ。また、剛史にしても、一発と約束したとしても勢いで何発殴るかわかったものではない。
 負担が減ったからか、和美は昔と同じ笑顔を見せ、近況を語りながら昼食を摂った。
 店を出る直前、例のウェイトレスが意味ありげな視線を送って来た。彰彦には自分からしっかりと報告しておくから任せておけ、という合図だ。どうやら彼女も、剛史と和美の応援についているらしい。本当に小さな町だ。こんなことさえもが、ご近所の一大イベントになってしまう。
 外は今日も快晴。思わず目を細め、貴文は次の電話をかける。