星 の 棲 む 川

    10.

 その後の一週間、貴文の生活は全て、和美、亮平、剛史のために費やされた。
 案の定、亮平は剛史の一発では納得せず、尚も掴みかかった剛史を制し、貴文自らが拳を繰り出した。
 時間さえかければ、亮平もちゃんとわかってくれる。それが貴文の出した結論で、確かに三日目の夜には、貴文の部屋で亮平は数年振りの涙を見せた。
 彼らの問題は、これでひとまずは片づいたと言える。
 だが、貴文にはある程度先が見えていた。
 半年と経たない間に、和美がもう一度自分の所へ相談に来るはずだ。剛史と合わないのではないか、と。
 多分、和美はそういう女なのだ。この間顔を見た時から、貴文はそれを感じていた。どれほど理想的な男が現れても、それに満足できない種類の女。そういう女達と同じ匂いを、貴文は和美から感じ取っていた。
 それでも貴文は、親身に和美の相談を受けるだろう。何度繰り返しても、無駄だとわかっていても、その度に和美の為に力を尽くすのだろう。
 なぜならば、貴文は“みんなのお兄ちゃん”なのだから。


 漸く肩の荷が下りた貴文は、暇な午後をカフェで過ごすことに決めた。
 家を出て数歩。
「貴文」
 聞き覚えのある声だった。振り返らなくとも、そこに誰がいるのかわかる。
「もう忘れたの? 昔の女の扱い方は心得てるようね」
「令子」
 振り返る前に、令子の方が近づいて来ていた。わざわざ貴文の正面まで回り込んで。
「貴方のお気に入りの公園、無くなってたのね。知らずに探しちゃったわ」
 そんな話を、いつかした覚えがある。実家の近くには大きな公園があって、いつもそこのベンチに座っていた、と。
「でも、駅で場所を聞いて行ってみたわ。可愛らしいカフェね。あの景色からカフェを消して、そこにたくさんの木を想像してみたわ。少しは貴方の気持ちがわかるかと思って」
 在りし日の公園を想像する令子を、貴文は見ていた。公園のあった辺りを歩きながら、そこに公園を見ようとする令子を、貴文は遠くから見ていた。
「貴方のお家の前までも来てみたの。でもまさか、無様に捨てられた年増女です、なんて言うわけにはいかないでしょう。何て言って入るのが一番スタイリッシュか考えてたら一時間以上経ってたのよ。妹さんと何度も目が合ったから、やっぱり出直すことにしたの」
 その時も、貴文は物陰から令子を見ていた。格好をつけることばかり考えていた令子は、隠れていた貴文には気づきもしなかったが。
「それから、本当の用事はこれ」
 ハンドバッグから令子が出したのは、貴文が日頃愛用しているオイルライターだった。
 大学に入学した年に、父親が奮発して買ってくれた品で、値段は恐ろしくて聞く気になれなかったのだが、ゼロが幾つも付く高価な時計だ。
「貴方ったら、歯磨き粉とかお箸まで始末して行ったのに。本当に抜けてるわ。今まで気づかなかったの?」
 てっきり、部屋に置いたまま手つかずになっている荷物の底に入っているとばかり思っていたのだ。貴文の表情からそれを読み取り、令子は皮肉な視線を巡らせる。
「これで最後ね。それと、人と別れる時は礼儀を重んじるべきよ。次からは気をつけなさい、私と同じようにはいかないわ」
 勝手なことばかり口にする令子だったが、何故か腹は立たない。これほど簡単なことを、貴文はなぜあれほど必死になって避けていたのか。
 何か言わなければ。
 既に遠ざかりつつある令子に、貴文は叫んだ。
「令子!」
 しかし令子は軽く片手を上げただけに留まり、振り返ることすらしなかった。
「誤解してた、すまない」
 連れ戻しに来たわけでもない。なじりに来たわけでもない。結婚を迫るわけでもなく、ただ大切なライターを届けに、そして、けじめをつけるためにだけ会いに来た。
 瞼をそっと閉じる。
 もう、あの日の令子の目は思い出さない。その代わりに、最後のあの独特な視線が浮かぶ。


 カフェでコーヒーを注文した後、カウンターの奥から彰彦が現れた。
「ご苦労様、貴兄。これ、俺からの気持ち」
 大皿に山と積まれたクッキーが出される。またか。違う気持ちの表し方をしてほしかったが、良かれと思ってしてくれているサービスだ。受け取らないわけにはいかない。
 煙草を銜えると、彰彦がマッチを差し出した。
「いや、今日は持って来てる」
 先程、手元に戻ったばかりのライターを示す。最初にライターを探したのは、確かこの店に初めて入った時だ。あの時は、部屋に置き忘れたとばかり思っていたが。
 久しぶりに使うオイルの香りを楽しもうとした途端、セーラー服が勢いよく店内に飛び込む。
「貴兄、マナにも半分ちょーだい」
 どうやら外から、この大皿が目に付いたらしい。甘い物が好きな真名美にとって、貴文はいいカモになりつつある。
 すぐに鞄を下ろし、真名美は貴文の横に座った。
 許可を得る前に手を出している真名美に、カウンター越しに彰彦が叱りつける。
「自分の金で食べなさい。バイトで稼いでるんだから」
「あれ辞めたもん。貴兄がだめって言ったから。大人になるまで我慢するの」
「へえ、マナも貴兄の言うことだけは聞くんだな」
 話している間も、その手は止まらずクッキーへと伸びる。
「うん。だから貴兄、マナ急いで大人になる。冬休みに見た女の人みたいになるから待っててね」
「冬休み?」
 どうも真名美の話はいつも要領を得ない。困惑する貴文に、彰彦が解説を加える。
「マナの奴、貴兄のとこに遊びに行ったんだよ。でも貴兄いなくってさ、ふらふらしてたら偶然貴兄見つけたんだって。でも貴兄、女連れだったから声掛けられなくて、そのまま後ろこっそりついて行ったら、いいマンションに入ってったって。これ、町の人殆どが知ってる話だよ?」
 本当に、秘密の持てない町だ。
 気恥ずかしさが今更ながら沸き上がる。
 貴文が涼しい顔で町を歩いていた時、近所の主婦は、或いはその話をしていたかもしれないのだから。
「いっつもは“お兄ちゃん”の貴兄が、タケちゃんとかアキちゃんとか亮平くんみたいな感じだったの。マナびっくり。だから、マナも、お金稼いで貴兄に頼られて、貴兄の“お姉さん”みたいになるの」
 それだけ話す間にも、数枚のクッキーが真名美の胃に消えて行った。
 今、貴文は多少混乱していた。
 令子の部屋で半同棲生活をしていたことが、町中に知れ渡っている。この事実までは良しとするにしても。
 二の句が未だに告げずにいる貴文を見かねたか、身を乗り出した彰彦が小声で囁いた。
「マナは貴兄の理想の女になって、貴兄を振り向かせるつもりなんだよ。どうする、貴兄?」
 横目で、菓子を貪る真名美を見遣る。
「真名美が大人になったら……その時に、考えることにする」
 もっとも、そんな日が来るより先に、貴文が結婚することも考えられ、もしくは真名美の気が変わる可能性もある。そんな貴文の考えを読んだか、彰彦は押し黙り、そして頷いた。


 カフェの窓の向こうに見える物は、去年とほぼ同じだ。
 ただここに、木々やせせらぎ、ベンチが無いというだけで。
 購入したばかりの、まだ未記入の履歴書用紙を傍らに、貴文はカウンターの一番端の椅子に腰掛けた。
 町に戻ってから契約した携帯電話は、今では一日中鳴りっぱなしだった。全て、貴文が子供の頃から面倒を見て来た町内の弟分や妹分で、各々の雑多な用件を日々消化することで、貴文の日常は成り立っている。
 以前の電話は、暫くの間机の中に放置されたままになっていたが、、やがて解約された。
 公園は失われたが、太い幹のあった場所や、せせらぎがどの辺りだったかも貴文は記憶している。
 亮平が初めて登ることに成功した木。真名美が石で怪我をした河原。
 全ては簡単に思い描くことができた。
 それは、別れ際の令子の表情と同じく、何の曲解もされずに貴文の中に存在する。