砂 上 の 夢

    5.

 リクの家には、明かりが灯っていた。グレンが既に帰っているのだろう。
 フィッツは軽く舌打ちした。今日の昼間、リクの件でグレンに抗議をしたばかりだというのに。それから半日も経たない間に、状況は一変してしまった。多分、リクはもう石を狩らない。その必要がなくなった。いや、狩れないかもしれない。抜け殻になったリクは、石を狩るどころか、日常生活すらできなくなるかもしれないのだ。
 まずグレンに打ち明けて、それから今後のことを考えよう。
 一時の勢いでリクに荷担してしまったが、あれは熱病のようなもので、冷めてみれば大それたことをしてしまったと後悔するばかり。だがきっと打つ手はある。あるはずだ。
 都市の学問所で六年も勉強して来たグレンなら、何とかできるのではないか。
 そのフィッツの期待も、すぐに崩れた。
 外から呼んでも、グレンが答えない。
 仕方なく、フィッツはリクと共に中に入った。
 炉に火は入り、夕食も並べられ、家中がリクの到着を待っていたようだった。
 肝心のグレンは。
 フィッツは、人生で最も衝撃を受けたのはいつか、と問われれば、おそらくこの日この瞬間だったと答えるに違いない。
 先程の道すがら想像した、生きる屍。時間を止められた男。身動きもせず、語らず、聞こえてもいない、歳も取らない男。
 まさに想像したのと同じ男が、グレンの姿でそこに座っていた。


 驚いていたのはフィッツだけではなかった。
「グレン? グレン? どうしたんだ、グレン」
 フィッツの横をすり抜け、リクは兄に駆け寄った。
「フィッツ、グレンがおかしい。聞こえてないみたいだ。おい、オレが見えてるか、グレン?」
 リクにとって、最も大切なものは兄のグレンだ。頭が良くて、優しくて、妹を可愛がってくれる、自慢のグレン。それがどうしたわけか、身動き一つしないのだ。返事もしてくれない、リクを見てもいない。
「フィッツ、医師だ、医師を呼んでくれよ!」
「……病気じゃないから、無理だ」
 何故そんなことがフィッツにわかるのか。
 睨み付けようと、フィッツを見上げたリクは、彼が泣き出しそうな顔をしていることに気づいた。大人になってからは、フィッツはこんな顔を一度も見せたことがない。
「なあ、リク。おまえ、今日のこと、どこまで覚えてる?」
 今はそれどころではない。
「今日? 今日は……石を、いつもより多く採ってやろうって、……そうだ、十個必要だったから……それで……」
 そんなことを考えている場合ではないとわかっているのだが、なぜか今日のことがよく思い出せず、そればかりが頭を占める。
「忘れたよ、そんなことどうだっていいだろ! グレンだよ、グレン! どうしたんだよ、グレン」
 再びリクは兄の前に跪き、その顔を覗き込んだ。
 何があったのか。
 自分が砂原に行っている間に、兄の身に何が起こってしまったのか。
 誰にも教えたことはなかったが、男勝りのリクにも、愛する男はいた。
 リクは一人の男性としてこのグレンを見ていた。
 だがリクなど、所詮は妹に過ぎず、見ようによっては弟同然の存在とも言えた。いずれグレンは、リクの知らない可愛い女性と恋に落ち、その人と結ばれるだろう。リクにはできないことを、赤の他人は簡単に成し遂げてしまう。
 そのことが耐え難かった。いっそ、グレンの時間が今のまま止まってしまえば、他の見知らぬ女性を愛することもないのに。そう考えたこともあった。
 そこまで思い出した時。
「刻み石……刻み石だったら、グレンをこんな風にできる……」
 もし誰か、リクと同じことを考えている人間がいたとしたら。
 その誰かが、偶然、刻み石を手に入れてしまったら。
「フィッツ! 刻み石だ。誰かが刻み石を使って、グレンを!」
 指し示すように腕を伸ばした時、リクはそれまで袖に隠れていた自分の左手首を見た。
 どこかで見たような腕飾りだった。
 いつ自分はこんなものを付けただろう。
 この小石。まるで石のミニチュアのようだ。
「フィッツ、これ何だ? なんでオレ、こんなの持ってんだ?」
 その時、フィッツは覚悟を決めたらしかった。
 彼はグレンとリクから顔を背けた。
 そして目をそらしたまま、リクに真実を答えた。
「おまえが今日、自分で採った刻み石だ。諦められない相手の時間を止めたから、おまえの記憶はそいつに食われてんだ」


 翌朝、いつまで経っても学校に現れないグレン師を不審に思い、もう一人の教士が訪ねた。
 家の中には、何かの病気になったらしいグレン師と妹がいた。医師によれば、この兄妹の症状は全く同じで、原因はわからないという。
 二人はひとまず、近所の誰かが面倒を見るということで一致し、今はただ二人で、お互いを見ることもなく過ごしている。


 フィッツには理解できなかった。
 記憶を徐々に失って行くリクは、それでもなんとか、自分が積年の願いを叶えたことだけは解ったようだった。
 最後にリクは、腕飾りを外しながら呟いた。
「これ、あんたに預ける。やっぱり砂原に戻した方がいい。オレはあと一回でいいからな。オレもこのままグレンと一緒に止まる。よろしくな」
 おそらくもう、フィッツの名を忘れてしまったのだろう。何度か、フィッツの顔を覗き込むようにし、何かを吐き出そうするかのように苦しげに言い淀んだ。しかし、やはりその口からフィッツの名が零れることはなかった。
 時間の停止したリクをグレンの横に座らせ、フィッツは慎重に腕飾りを抜き取った。
 大昔の男は失って行く自分自身に耐えられずに死を選び、この少女は、通じ合うことなど有り得ないというのに、兄と同じ身になることを望んだ。
 やはり、自分はリクを止めるべきだった。
 刻み石が現れたと解ったあの時に、リクを無理矢理にでも連れ帰るべきだった。
 砂原に仕事に出た時に、これは埋めてしまおう。
 そう考えていた。
 そのはずだったのだが、ついつい作業に夢中になるあまり、捨てて来るのを忘れてしまった。
 明日でいい。
 その油断がまずかたのかもしれない。
 明日こそは。明日こそは。
 数日手元に置くうちに、フィッツにある変化が起こる。
 十日の後、フィッツは長い休暇を取り、隣町へと出掛ける。