砂 上 の 夢
    4.
 暗くなった村に着いた時、石狩り達が村はずれで二人を迎えてくれた。
             収穫の石五つを組合長に渡し、引き替えに金を受け取った後、リクはいつも通り無愛想に立ち去った。
             刻み石は今、リクの左手首に巻かれていた。衣の袖口に隠れているため、他人に気づかれることはない。
             数歩離れて後ろを歩くフィッツの目は、ついついその左手首へと惹きつけられる。
             あれを手に取った瞬間から、もうリクは刻み石の力を得ているはずだ。ということは、もうすでにこの村のどこかで、誰かが犠牲になっているに違いない。
             リクの望み通り、時の止まった人形となった男が、どこかにいるはずなのだ。
             時が停止する。
             想像するだけで背筋が寒くなる。
             初めは誰も気づかない。何か様子がおかしい、というだけだ。そのうちに、瞬きをしていないとわかる。食事もしない。動かない。喋らない。体中の力が完全に抜けたようになっていて、何をしても無反応。
             何かの病気かと医師に診せるが、原因はわからない。
             何の手だてもないまま時が過ぎて、そしてやっと恐ろしい真実が見えて来る。
             何年経っても、この病人は変わらない。歳を取らなくなっている。まるで彼の時間だけが止まってしまったようだ、と。
             その時になって始めて、誰かが刻み石を使ったことがわかる。
             フィッツは身震いした。
             本当にこれでいいのだろうか。
             その男はもう、生きているとは言えない。何も語らず何も考えず、普通の人間にとっては一瞬に過ぎなかったことが、彼には永遠に続くのだ。
             リクはもう、使ってしまったのだろうか。
             もしまだ何もしていないのなら、今ならなんとかなる。今すぐあれを取り上げて、砂原に捨ててしまえばいい。
             まだ使っていないのなら、リクもまだ無事だ。だが、もし、もう手遅れだったら?
             リクの身にも、刻み石を使った代償が降り掛かって来ているはずだ。
            
            
             いつまでもついて来るフィッツを、リクは全く気にしていなかった。
             早く自分の目で、刻み石の効果を確かめたかった。
             この石が言い伝え通りの力を持っているのなら、既にあの人の時間は止まっているはずだ。
             いや、間違いなく止まっている。
             リクには確信があった。
             なぜならば、砂原で刻み石に触れた直後から、じわじわと、リクは奪われ始めていたのだから。
             着実に、刻み石はリクを浸食していた。
             その証拠に、リクはもう、先程見た組合長の顔を思い出せなくなっている。
             仲良くなった伝令鳥の名前も、もうわからない。
             両親の顔、名前、一緒に過ごした思い出。全てが順番に消え去って行く。
             正直、リクは刻み石を甘く見ていた。
             記憶も人格も奪われていく、という恐ろしい作用を知らなかったわけではない。
             ただ、これほど早く進行していくとは思っていなかった。
             もっとゆっくり、じわじわと訪れると思っていたのに。
             初めて刻み石が怖いと思った。いっそ左手のこれを放り投げてしまおうか。だめだ。そんなことをしたら、あの人が元に戻ってしまうかもしれない。それにもう遅い。たとえ今から外したとしても、奪われたリクの記憶は返してもらえない。
             もし家に着く前に、家の場所がわからなくなったらどうすればいいだろう。
             それよりも、あの人を手に入れる前に、あの人のことを忘れてしまったら何にもならない。
             今リクは、必死になってその男のことを考え出した。思い出の全てを反芻する。
             それは、砂に何かを描く作業に似ていた。
             描いても描いても、すぐに風にかき消されてしまう。消されるとわかっていても、書き続ける行為のようだった。
            
            
             リクの様子がおかしいことに、数分前からフィッツも気づいていた。
             分かれ道にさしかかるたびに、一旦足を止め、何かを確認するかのように周囲を見渡してから進む。
             今のところ、真っ直ぐにリクの家に向かっているが、いつ道を間違えてもおかしくはない、そんな足取りだ。
             やはり使ってしまったのか。
             もう始まっているのだ。リクは奪われている。
             もしかすると、フィッツのことさえももうわからないかもしれない。そう考えるとぞっとした。
             もし今、フィッツがリクに声をかけて呼び止めても、振り返ったリクは目の前にいるフィッツを、知らない人だと言うかもしれない。
             物心ついた頃から兄のグレンと遊んでいた近所の子供がフィッツだということも、もう知らないのかもしれない。
             残念ながら、それを試す気にはなれなかった。
             怖いのだ。
             リクがこうなってしまったのは、フィッツの責任だ。止められるチャンスを何度も与えられておきながら、フィッツはその悉くを無視してしまった。
             グレンに責められた時に、それを受け入れる準備だけはできている。
             こうやってリクから離れずにいるのも、帰ったリクの様子がおかしいとグレンが気づく前に、自分の口から全てを語るためだ。
             と。リクの足が、突然止まった。
             とうとう家がわからなくなったのか?
             フィッツはおそるおそるリクに近寄った。
            「リク? どうした?」
            「フィッツ……」
             振り返ったリクは、しっかりとフィッツの名を呼んだ。
             まだ覚えていてくれたか。最悪の事態が訪れたわけではなさそうだ。
            「頼みがある。オレ、家まで保たないかもしれない。だから、歩きながら、オレの話聞いてくれるか? オレが忘れても、オレにオレのこと教えられるようにさ」
             自信の全てを失った時、人間はどんな顔をするのだろう。
             フィッツが今目にしている光景こそが、まさにそれではなかったか。
             今見ても、こいつは男にしか見えない。
             女の子のような恋に悩んでいたなど、フィッツには思いもよらないことだった。勿論、それを打ち上げられた後であっても、やはり信じがたい。
             弟の恋愛相談を受けてるみたいだな。
             できるだけ、少しでもいい、力を抜きたい。
             物事はそれほど深刻ではないのだと、フィッツは自分に言い聞かせたかった。
             もし、最も見たくなかった、生きる屍を、これから見る羽目になるのだとしても。